谷 信鋭(たにしんえい)     文化12年6月〜明治24年1月30日(1815-1891)

    幕末明治前期の軍艦「行速」士官。名、信鋭。通称、喜八郎。父、谷君男(長男)。下野壬生出身。祖先は、武田信玄の四天王の馬場美濃守信房という。幼年時に江戸に出て本を読みながら苦しい生活を送る。天保12年(1841)4月4日将軍徳川家慶に士官し御徒士となる。同僚の虐めに遭うが、これに挫けず水泳の技を磨く。また下谷御徒町に住み芝赤羽まで砲銃を習いに通い、勉学に励む。嘉永元年(1848)若年寄の武術見分において銃の早打ちで賞を受ける。安政2年(1855)老中・若年寄の前で水泳を披露し賞を受ける。同年小屋頭となる。安政3年(1856)幕府講武所の水泳教師となる。文久3年(1863)将軍より銀7枚を賜る。慶応3年(1867)6月番格軍艦組となり、慶応4年(1868)軍艦「行速」の乗り組となる。8月駿河の清水港に赴く。その頃大政奉還に反対する軍艦が11隻、奥州を目指すが、暴風雨に遭い、その中にあった咸臨丸が破損し清水港にて修理をする。この間、武器を預かる。明治元年(1868)官軍の軍艦富士山・武蔵・飛竜の三隻が咸臨丸を襲う。飛竜が乗組員が全て逃げて信鋭一人になった「行速」に来て船内を捜査。信鋭の処分を協議したが赦され、3艦は咸臨丸を曳いて江戸に向かう。同年10月海軍学校役3等になる。明治3年(1870)静岡藩が「行速」を新政府に移管し、品川に赴く。7月献納が済むと海軍2等士官となり、水泳を教授する。明治10年(1877)1月職を辞す。明治13年(1880)家督を長子谷信久に譲り隠居する。のち喘息に悩まされ明治24年(1891)に没する。77歳。若きときに橘千蔭の門に入り歌道を修め、「恍如夢録」を著わす。

※ 谷信久:海軍大佐。従五位勲四等。大正15年5月14日没。75歳。合祀。

墓は、谷中霊園 甲11号16側。正面「谷信鋭累世之墓」。「祥安院鋭誉勇信居士」。