寺西封元(てらにしたかもと)/寺西重次郎(てらにしじゅうじろう)    寛延2年〜文政10年2月18日(1749-1827)

    奥州桑折(こおり)の名代官・義士。通称、重次郎。芸州浅野家に仕える下級武士の子として生まれる。寛政4年(1792-1814)奥羽代官となり、22年間塙(はなわ)代官所(福島県)に勤務。農民は貧しく、子を間引きする習慣もあり、農民心得を著わし、悪弊を改めるよう指導。また、赤子養育費や子育手当金を支給し、人口増にも尽力した。農民を生活向上のため、開墾や治水事業を行い、寛政5年(1793)古くは「熊ノ森」と言われた土地に「向ケ岡公園」を造るなど、農民に現金収入の道を開いた。さらには、幕府から五千両を借り受け、近隣の大名や私領の農民に年利1割で貸し付け、その利子で農民救済資金とした。文化11年(1814)桑折代官所へ移り、塙・小名浜・桑折・川俣の幕領十四万石を支配した。著書:「子孫繁昌手引草」・「寺西八ヶ条」。79歳。

墓は、南泉寺墓地(西日暮里3-8-3)。墓地中央の高台へ行く通路の中段の左側入る。結城正明墓のより先。正面「松樹院殿翠巌豪山大居士」。墓碑周りに略歴あり。建之は、子の寺西元栄(てらにしもとなが:1782-1840)。