徳川家斉(とくがわいえなり) 安永2年10月5日〜天保12年閏1月7日(1773-1841)
十一代将軍。在職:1787-1837。一橋家徳川治済の長男。生母、側室のお登美(慈徳院)。十代将軍家治に跡継ぎ家基が急死(毒殺説もある)したため、養子となり14歳で将軍となった。家治時に老中だった田沼意次を辞めさせ松平定信を老中とした。跡継ぎが枯渇することを恐れたのかどうか分からないが、側室を40人(おまん・香林院・おうたの方・慧明院・超操院・おとせの方・お蝶の方・芳心院・清昇院・本性院・おやえの方・おみよの方・智徳院・おいとの方・おるりの方等)も作り、子は57人もいるような酒池肉林の生活をした。また、大奥の繁栄も絶頂期となり、享楽にはしり退廃の極みとなる。このため大奥、子供らの養育費のため財政が逼迫したとか。正室は、寔子。
※ 東京大学赤門は、21女溶姫が加賀藩前田斉泰に輿入りする御守門である。
広大院/篤姫/寧姫/茂姫 安永2年6月18日〜天保15年11月10日(1773-1844)
徳川家斉の正室。父、松平薩摩守島津重豪。母、側室お登勢の方(慈光院)。4歳で縁組。家斉が家治の養子となると、一橋邸に引き取られ、"御縁女様"と呼ばれる。天明7年(1787)近衛右大臣経熙の養女として縁組され"茂姫"となる。寛政元年(1789)に結婚。のちに天璋院が篤姫を名乗ったのは、広大院にあやかったといわれている。墓は、第一霊廟内?
墓は、寛永寺第一霊廟。塀越しに一部を見ることができる。