徳川家定(とくがわいえさだ)    文政7年4月8日〜安政5年7月6日(1824-1858)

    十三代将軍。在職:1853-1858。父、十二代将軍家慶(四男)。生母、旗本跡部茂右衛門正賢の娘、お美津の方(本寿院)。幼名、政之助。通称、家祥。のち家定と改名。家慶には24人の子女があったが、成人したのは家定だけである。病弱で発音も不明瞭だった。18歳のとき正室として関白鷹司政熈の娘任子と結婚するが、25歳で死別。継室一条忠良の娘秀子と結婚するが、28歳で死別。継継室として島津忠剛の娘敬子、島津斉彬の養女、近衛忠熈の養女篤姫(天璋院)と結婚。嘉永6年(1853)にペリー提督が再来するという困難な時期だったが、身体が弱く幕政は老中阿部正弘が行い、後、井伊直弼に行わせた。

墓は、寛永寺第二霊廟。写真右は、背後、JR線路側の外から見ることができる。