徳川家綱(とくがわいえつな)    寛永18年8月3日〜延宝8年5月8日(1641〜1680)

    四代将軍。在職:1651-1680。幼名、竹千代。仇名、左様せい様・よしなに様。正保元年(1644)12月名を「家綱」と改め、正保2年(1645)4月に元服。慶安3年(1650)9月に西の丸へ移る。慶安4年(1651)4月に父・家光の死に伴って、わずか10歳で将軍となる。39歳で病死した。
    家綱の将軍の座についた直後に起こった由比正雪らによる江戸幕府覆滅をはかった慶安事件の解決を機に安定期に入り、末期養子の禁の緩和、殉死の禁止など武断政治から文治政治への切り替えもおこなった。乳母、矢島局。正室、伏見宮貞清親王の娘浅宮顕子。側室、養春院(お振)・円明院(お満流)。

墓は、寛永寺第一霊廟。石垣の格子門から見ることができる。「厳有院殿贈正一位相国公」。