徳川茂徳(とくがわもちなが)    天保2年5月2日〜明治17年3月6日(1831-1884)

    高須藩第11代藩主、尾張藩第15代藩主、一橋徳川家第10代当主。別名、松平義比(よしちか)、徳川玄同(はるあつ)、一橋茂栄(ひとつばし・もちはる)。号、好徳、穆堂。父、美濃高須藩第10代藩主松平義建(五男)。幼名、鎮三郎。嘉永3年(1850)10月16日父義建の隠居にともない高須藩第11代藩主となる。安政5年(1858)7月5日安政の大獄での処分により、尾張藩主の異母兄徳川慶勝が隠居謹慎となり、尾張藩第15代藩主となる。高須藩主は長男義端が継いだ。文久2年(1862)慶勝の謹慎が解かれると藩内が対立、文久3年 (1863)隠居し慶勝の子義宜に家督を譲る。慶応2年(1866)12月27日一橋徳川家の当主徳川慶喜が将軍となったため一橋徳川家を相続。明治新政府とは全徳川家を代表して交渉にあたり、特に徳川慶喜の寛大な処分を願い出た。徳川茂徳、会津藩主松平容保、伊勢桑名藩主松平定敬、徳川慶勝の4人を「高須四兄弟」と称する。

墓は、寛永寺谷中墓地。徳川慶喜墓前の囲みの中。墓碑の正面は殆ど見えないが、裏側(慶喜墓側)からは丸見えである。正面「顕樹院殿正二位荘徳玄同大居士」。

一ツ橋家歴代合祀墓