富井於菟(とみいおと)     慶応元年〜明治18年12月2日(1865-1885)

    明治期の女流教育家。名、虎子。父、醤油屋富井直好(四女)。播磨州西郡龍野出身。醤油屋の娘に学は不要と思われる中、母が学問を好む娘のため努力し郷里の中学校を卒業。17歳で京都に出て岸田俊子の門に学ぶ。漢学と算術を得意とした。欧米の書を読み、その風俗の良さを知り、わが国婦人の卑屈無学を嘆く。のち自由民権家の坂崎紫瀾の門で自由民権思想啓蒙を目的とした「絵入り自由灯(えいりじゆうのともしび)」新聞社の校正を担当。女子新聞社員の嚆矢となる。坂崎の家に同居して学事に勉めていたところ、坂崎の妾と意気投合し、姉妹となる約束をして、一片の謝状を置いて神奈川に行き、遊説して婦人を啓蒙しようとするも、資金不足で挫折。明治18年(1855)女子教育者人見ぎん・木村トウらが明治女学校を設立すると、教員をかって出て、漢学算学を教え、自らは英語を研究する。21歳。甥の富井六造は、早稲田大学教授。

富井六造(とみいろくぞう)     明治21年〜昭和56年1月24日(1888-1981)

     大正期の早稲田大学理工学部教授。富井直好の孫。富井於菟は、叔母。兵庫県出身。大正6年(1917)早稲田大学教授、電気化学担当。昭和35年(1960)定年退職。93歳。

墓は、谷中霊園 甲6号5側。ひょうたん横丁寄り。正面「富井家之墓」。