藤堂高虎(とうどうたかとら)    弘治2年1月6日〜寛永7年10月5日(1556-1630)

    安土桃山〜江戸初期の戦国武将・伊賀初代城主。幼名、与吉。通称、与右衛門。晩年号、白雲。父、近江犬上藤堂村藤堂源助虎高(二男)。浅井長政の家臣だったが、17歳で浅井家を去る。天正14年(1586)21歳で木下秀長に仕える。秀吉の家臣40歳で直属の大名となるが、慶長3年(1598)に秀吉が没すると、家康に接近し関が原の戦いで勝利に貢献し、伊予今治20万石の領地を得る。以後、家康に尽くし、大阪城落城後は、32万石に加増される。家康から家光までの徳川三代に仕え江戸の都市開発の基礎を作った。75歳。「寒松院殿道賢高山権大僧都」。

松寿院(しょうじゅいん)     ?〜慶安元年9月2日(?-1648)

     藤堂高虎継室。藤堂高次の母。名、熊。父、能登の豪族長連久。関ヶ原の戦いでは西軍の人質となっていた。「松寿院清華妙胤大姉」。供養塔が、西光寺墓地にあり、没年は、そこに記載されているものを採用。

藤堂高次(とうどうたかつぐ)     慶長6年閏11月11日〜延宝4年11月16日(1601-1676)

     伊賀32万3950石藤堂家第2代藩主。幼名、子字太助・大学。父、藤堂高虎(長男)。母、長久連の娘熊(松寿院)。伊予板島出身。慶長8年(1603)父に伴われ伏見城に入る。慶長11年(1606)江戸城にて徳川秀忠および徳川家康に拝謁。元和4年(1618)初めて伊予の津に入城。寛永7年(1630)高虎の死去により襲封し、第2代城主となる。徳川家光の上洛に供奉し従4位下侍従大学頭となる。江戸城二の丸修築・本丸修築にあたる。国元においては、津城下の街並み整備・高虎の霊廟として寒松院建立。水害干ばつに対処・地図作り・新田の開墾・水利開発など民治に務める。しかし、幕府への御手伝普請により財政難となる。伊賀者が他藩に仕えるのを防ぎ、兵部の制を定め、無足人制度を設ける。大学頭・従四位下侍従・左近衛権少将・江戸城造営助役・江戸城西の丸用材献上日光霊廟造営助役。正室は上野厩橋藩2代藩主 大老姫路藩酒井忠世の娘。76歳。「大通院殿智堂高勝権大僧都」。

藤堂高久(とうどうたかひさ)     寛永15年1月26日〜元禄16年4月29日(1638-1703)

     伊勢国津藩第3代藩主。父、藤堂高次(長男)。江戸城にて生まれる。万治元年(1658)初入国。寛永21年(1644)徳川家光に拝謁。承応3年(1654)従四位下左近衛権少将・和泉守・侍従。その間津城下に大火が起こり復興に務める。寛文9年(1669)高次の隠居に伴い32歳で襲封し、第3代城主となる。火災・水害・干ばつが多く、財政が逼迫。江戸より服部織部・玉置甚三郎の2人を派遣し、藩政を改革する。一方、伊賀藩の重臣加納藤左衛門直堅・石田清兵衛らの失政者の処罰し、伊賀藩の重臣を一新。綱紀粛正に努める。「治国の大本は土民にある」として、農耕を勧め、郷土制度を確立するなど農政に務める。特に天和3年(1683)に「可相守条々」の17カ条を発令。これは後世まで基本藩法となる。突然の大名廃絶もあり得る時代にあって、高次同様に幕閣実力者らに親近し御家安泰を図る。正室は、上野厩橋藩4代藩主で幕閣重鎮酒井忠清の娘亀姫。忠清失脚変死の際には、幕府の派遣した目付に遺族代表として折衝し、その遺児を養女にするなど身命を賭して酒井家を守る。その後も、大老堀田正俊・牧野成貞・柳沢吉保らに接近する。男子の実子なく、29歳年下の末弟高睦を養嗣子とする。66歳。「了義院殿実観高顕大僧都」。

藤堂高睦(とうどうたかちか)     寛文7年閏2月4日〜宝永5年10月9日(1667-1708)

     伊勢国津藩第4代藩主。初名、高政、のち高近、さらに高睦。父、藤堂高次(五男)。母、側室・平井徳右衛門の娘。高久の養嗣子となる。元禄16年(1703)高久が死去し、遺領を相続、第4代藩主となる。江戸で2度も大地震に遭い、藩邸など甚大な被害を被る。藩政をひきしめ、職制を改革。寺社奉行・郡奉行・普請奉行・作事奉行の4奉行を整備、家老制度・側用人制度の見直しをする。江戸城石垣修理助役。従四位下・和泉守。正室、小笠原忠雄の娘"於義"。実子はすべて早世のため、高睦の死去後、支藩の藤堂高敏を養嗣子とし相続する。42歳。「大亨院殿独山高慎権大僧都」。

藤堂高敏(とうどうたかとし)     元禄6年2月4日〜享保13年4月13日(1693-1728)

     伊勢国津藩第5代藩主。父、初代久居藩主藤堂高通(三男)。母、福本休悦の娘・智鏡院。兄、藤堂岩之助・藤堂鶴松が早世したため嫡男となる。5歳のとき父を亡くし、叔父の藤堂高堅が一時相続し、高敏が成長したら久居藩主とするつもりでいた。ところが、本家の藤堂高睦の男子がすべて早世したため、宝永2年(1705)13歳で高睦の養嗣子となる。宝永5年(1708)高睦の死により16歳で第5代藩主となり、大学頭から和泉守となる。宝永4年(1707)の富士山の爆発により近辺の被害は甚大で、幕府より災害復旧工事の御手伝普請を命ぜられ、封地監察駿河・相模河渠浚利助役。津藩領内も凶作が続き正月の餅つきを禁止するほど財政が悪化。享保13年(1728)疱瘡に罹り、徳川吉宗から薬を拝領したが、津城にて没する。36歳。従四位・和泉守。正室、豊後岡藩主中川久通の娘。家督は、養嗣子藤堂高治が継ぐ。これにより、高虎直系の男系血統は絶えることとなった。「大輪院殿智月高映権大僧都」。

藤堂高治(とうどうたかはる)     宝永7年8月19日〜享保20年8月2日(1710-1735)

伊勢国津藩第6代藩主・津藩の支藩の久居藩第4代藩主。幼名、小次郎・幸之進。初代藩主藤堂高虎の弟の藤堂高清の孫の藤堂高明の季子。母、貞性院。享保8年(1723)久居藩第3代藩主藤堂高陳の隠居に伴い、久居藩第4代藩主となるも、本家の津藩主藤堂高敏が急死し、嗣子も無かったため、高虎の血統を継続させるため、享保13年(1728)19歳で高敏の養嗣子となり本家の家督を継ぎ、津藩第6代藩主となる。当時領内で凶作が続き農村の疲弊がひどく荒廃した農村救済に尽力、大庄屋・庄屋を督促し篤農家を表彰するなどの策を採った。また、学問を重視し佐善元恭・奥田士享らの儒員を重用し振興を図った。従四位下・大学頭。享保20年(1735)26歳で死去。家督は、久居藩で高治の後を継いだ藤堂高豊(のち高朗)が継いだ。正室は、対馬府中藩第6代藩主宗義誠(そうよしのぶ)の娘。「長空院殿智風高達権大僧都」。

藤堂高般(とうどうたかかず)     享保16年〜宝暦4年7月6日(1731-1754)

     父、第6代藩主藤堂高治(長男)。津藩の世嗣であったが、高治の歿時には幼少だったため、久居藩主堂々高朗が第7代津藩主となり、高般は、高朗の養嗣子となった。宝暦2年(1752)徳川家重に拝謁し、従四位下・大学頭に叙任するも2年後に早世。「本寂院殿義洞高明権少僧都」。

藤堂高朗(とうどうたかほら)     享保2年10月28日〜天明5年4月7日(1717-1785)

     伊勢国津藩第7代藩主・久居藩第5代藩主。名、高豊のち高治。父、藤堂高武(二男)。母、信令院。正室、安藤信周の娘(美濃加納藩初代藩主安藤信友の養女)。はじめ父高武の家督を継ぎ出雲を称す。享保11年(1726)藤堂高治の嗣子となり、享保13年(1728)高治が本家藩に移ったので、久居藩主となり、大膳享と称した。しかし、享保20年(1735)高治が病いに倒れ、再び高治の養嗣子となり、高治の死後、津藩の家督を継ぎ、津藩主・和泉守となる。藩命により江戸城城溝浚利助役・関東河渠堤防修築助役・桃園天皇即位慶賀使・日光修理助役を務め、自ら出張して監督にあたったが、この出費により24万両もの借財が重なり、藩財政は逼迫した。一方、文学を奨励し儒学文芸も盛んであったが、士風・民風共に、自身も含め弛緩したので、風教善導に務めた。明和6年(1769)病弱のため四男の藤堂高悠に家督を譲り隠居し、天明5年(1785)69歳で没した。従4位下・和泉守。「孝譲院殿経山高綸権大僧都」。

藤堂高悠(とうどうたかなが)     寛延4年6月8日〜明和7年閏6月2日(1751-1770)

     伊勢国津藩第8代藩主。初名、高丘。父、7代藩主藤堂高朗(四男)。母、安藤信周の娘(美濃加納藩初代藩主安藤信友の養女)。江戸卯原に生まれる。先代高朗は、先先代高治の第5子藤堂高般(たかかず)を嫡子としていおたが、21歳で死去したため、実子の高悠を嗣子とした。高朗が病弱のため明和6年(1769)53歳で隠居したため、19歳で藩主となる。勤王意識が高く佐賀藩主と共に京都仙洞御所の営築助役・東海道河渠浚利助役を引き受け、藩財政を圧迫した。そのため津の豪商田中次郎左衛門(田端屋)から工事費1万両を献納させるなど資金調達に苦心する。松平出羽守宗衍の娘を娶る予定であったが、未婚のまま没する。子が無く、兄の藤堂高嶷が後を継いだ。20歳。「到岸院殿円真高徳権大僧都」。

藤堂高嶷(とうどうさど)     延享3年7月4日〜文化3年8月26日(1746-1806)

     伊勢国津藩第9代藩主・久居藩第7代藩主。幼名、初次郎のち高敦。父、藤堂高朗(長男)。正室、中川久貞の娘。津で生まれる。宝暦12年(1762)久居藩第7代藩主となり、藤堂高敦と称する。明和7年(1770)本家を継ぎ津藩主となっていた弟の藤堂高悠が死去し、高敦が津藩第9代藩主となり、従四位下・和泉守に任じられ藤堂高嶷と改名する。工事中の京都仙洞御所造営を続け竣成させる。明和8年(1771)より全国的に「御蔭参り」が盛んとなり、津城下や参宮街道は賑わったが、凶作飢饉に苦しみ、「天明の飢饉」には、高嶷自ら麦飯を食して政務を律した。財政再建を急ぎ、寛政8年(1796)に「安濃津地割騒動」が起き、3万人規模の一揆となり、失敗する。61歳で没する。後継は、長男高ッが早世したため、二男の藤堂高兌となった。「祐信院清峻高節権大僧都」。

藤堂高ッ(とうどうたかすけ)     明和2年〜寛政10年(1765-1798)

     父、藤堂高嶷(長男)。久居藩嫡子として生まれる。高嶷が津藩主となると津藩嫡子となり、徳川家斉に拝謁し、従四位下・大学頭に叙任なるも、相続前に没し、家を継ぐことはなかった。「謙光院殿貞明高尚権少僧都」。

藤堂高巽(とうどうたか?)     寛政10年〜文化3年(1798-1806)

     嫡孫承祖にして藤堂高嶷の嫡子となるが、8歳で夭折。「宗玄院殿理性高深権少僧都」。

藤堂高兌(とうどうたかさわ)     天明元年4月2日〜文政7年12月17日

     伊勢国津藩第10代藩主・久居藩第12代藩主。幼名、庚千代。字、沢郷。号、鶴堂。父、藤堂高嶷(二男)。正室、永井直進の娘。はじめ11代久居藩主藤堂高直の嗣子となり、高直死後久居藩第12代藩主となる。従四位下・和泉守に叙任。はじめ幼少であったため家老の藤堂八座の助けを受ける。長じて財政立て直しのため寛政9年(1797)に「義倉積米」制度を制定。この資金は、事業資金・救済貸付金・藩校「有造館」の運営・災害復興に充てられた。藩政弛緩期に際し、藩政改革を断行し節約令を出し、藤堂藩中興の英主といわれる「文政の治」を成し遂げる。上野に支校「崇校堂」を建て、猪飼敬所・斉藤拙堂らを教授とする。一方、勤王の志が厚く、日光諸堂社修理助役・関東東海道河川修復助役を務める。父、高嶷は、領民から嫌われたが、高兌は、領民から大きな支持を得た。44歳で没する。「誠徳院松巌高秀権大僧都」。



     藤堂家之墓は、上野動物園正門から入り右側のレッサーパンダ舎の横を旧正門方向に進み、左側にある「動物慰霊碑」の後ろ側。入ることはできない。西側に9基、東側に5基が整然と並ぶ。個々の特定はできないが、文字の見える5基については確認できた。残る墓については、谷中過去帳の記載によるもの。

     寛永寺創建当時、藤堂高虎は、上野の山の半分にも及ぶ下屋敷を所有していた。寛永寺建立のため敷地を幕府に返還後、寛永寺の子院として現、上野動物園辺りに寒松院を建立、菩提寺としたが、上野戦争で彰義隊の本営となり焼失。現在は、墓だけが残っている。
※ 寒松院は、現在は寛永寺輪王殿裏手JR鶯谷駅側に移転し現存する。
※ 上野動物園内に残っているものに、「閑々亭」がある。藤堂高虎の墓の近くにある。茅葺屋根の茶室で、寛永4年(1627)に藤堂高虎が建てた。将軍が上野東照宮に詣でたときに接待した場所である。上野戦争で焼失し、明治11年(1878)再建。