津軽信寿(つがるのぶひさ)    寛文9年5月24日〜延享3年1月19日(1669-1746)

    陸奥弘前藩10万石津軽家第5代当主。父、第4代津軽信政(二男)。母、増山河内守政利の妹。幼名、竹千代・平蔵。通称、信重。延宝8年(1680)将軍徳川家綱に拝謁。貞享元年(1684)従五位下出羽守、のち土佐守。貞享4年(1687)那須与一の件で閉門となる。翌年元禄元年(1688)赦免。宝永7年(1710)家督を相続。享保15年(1730)子津軽信興が亡くなったため孫の信著を嗣子とし、享保16年(1731)致仕、竹翁または栄翁と号した。"いつしかや 今よひ十三月の顔"。「玄圭院性定徹心」。

津軽信寧(つがるのぶやす)    元文4年3月27日〜天明4年1月2日(1739-1784)

    陸奥弘前藩10万石津軽家第7代当主。第6代藩主信著(長男)。幼名岩松。父信著の早世により6歳で襲封。

津軽信明(つがるのぶはる)    宝暦12年6月22日〜寛政3年6月22日(1762-1791)

    陸奥弘前藩10万石津軽家第8代当主。父、第7代藩主信寧。幼名松五郎また熊五郎。天明4年(1784)2月晦日襲封。天明3年(1783)の大飢鍾による領内の復興に尽力。のち牧野左次郎・赤石安右衝門・菊池寛司らの寛政の七人衆を登用し、当藩の寛政改革に着手した。

津軽寧親(つがるやすちか)    明和2年1月17日〜天保4年6月14日(1765-1833)

    陸奥弘前藩10万石津軽家第9代当主。父、支藩黒石第5代当主著高(長男)。安永7年5月6日家督(6千石)を嗣ぎ支藩黒石第6代当主となる。宗藩第8代藩主津軽信明(つがるのぶはる)の早世により養子となり寛政3年(1791)8月28日襲封。寛政8年(1796)の藩校稽古館の創設。同9年(1797)の寛政律を完成。

津軽信順(つがるのぶゆき)    寛政12年3月25日〜文久2年10月14日(1800-1862)

    陸奥弘前藩10万石津軽家第10代当主。第9代藩主津軽寧親(つがるやすちか)。幼名、雅之助、文政8年4月10日家督相続。行いに問題があり天保10年幕府より18箇条の不審を問責されるに至り、隠居した。

津軽順承(つがるゆきつぐ)    寛政12年1月13日〜慶応元年2月5日(1800-1865)

    陸奥弘前藩10万石津軽家第11代当主。名、順徳・順承。通称、新之助。号、長楽庵。父、三河吉田城主松平伊豆守信明(三男/五男?)。文政8年(1826)11月5日支藩黒石第8代当主親足の養嗣子となり家督相続。宗家津軽信順(つがるのぶゆき)に世継ぎがなく隠居したため、天保10年(1839)養子となり家督相続、11代藩主となる。名を順徳から順承と改めた。天保の7ヵ年に及ぶ凶作に対応、徹底した倹約と新田開発を実施(天保の改革)。安政6年(1859)2月7日病気のため隠居。従三位。

津軽尹子(つがるただこ)     嘉永元年12月11日〜明治33年6月6日(1849-1900)

     陸奥国弘前藩主津軽承昭の継室。通称、信君。父、五摂家筆頭の関白従一位勲一等近衛忠煕(二女)。はじめ島津斉彬の嫡子虎寿丸と婚約予定だったが、安政5年(1854)虎寿丸が早世し破談となる。のち、文久元年(1861)に先室常姫(津軽順承の娘)を亡くした津軽承昭の継室となる。53歳。英麿・理喜子・奈良麿ら4子を設ける。

津軽承昭(つがるつぐあきら)    天保11年8月12日〜大正5年7月19日(1840-1916)

    陸奥弘前藩10万石津軽家第12代当主(最後)。父、熊本藩主細川斉護(四男)。幼名、寛五郎、名、承烈・承昭。通称、護明。安政4年(1857)土佐守、のち越中守。侍従、左近衛権少将。安政6年(1859)第11代藩主順承の四女常姫の婿養子となり、承烈と称した。安政6年(1859)2月7日家督相続、12代弘前藩主となる。勤王か佐暮か藩論の中最終的に奥羽越列藩同盟を脱退し、勤王方となる。箱館戦争に参加し功績を上げ、掌典禄1万石を賜る。明治元年(1868)磐城・岩代・陸奥の3郡取締となる。明治2年(1869)奥州触頭。版籍奉還により弘前藩知事に、廃藩置県によって免官、東京に住む。明治11年(1726)麝香間祗候。明治17年(1884)伯爵。のち第15国立銀行取締役。贈従一位勲一等瑞宝章。76歳。夫人は、関白従一位勲一等近衛忠熈の二女尹子(1848-1900)。

墓は、上野桜木・津梁院・谷中墓地。当区域は高い塀で囲まれ、谷中霊園の乙12号10側に隣接するが、入り口は言問通り側にある。門が閉められ中の詳細は見ることができない。したがって、上記個々の墓の存在は確認できていないが、7基ほどはあるようだ。
H.Nもへい様から寄せられた情報によりますと、2代信枚の墓碑(一番普通の五輪塔)に歴代(3代と5代、7〜11代までの合祀)の遺骨が埋葬されていて、他の墓碑は12代承昭夫妻と13代英麿夫妻の合祀墓と子女と側室の墓碑。

 

  津軽尹子墓