妻木頼黄(つまきよりなか/らいおう)    安政6年1月20日〜大正5年10月10日(1859-1916)

    建築家・明治時代の建築界三大巨匠の一人。幼名、久之丞。父、長崎奉行妻木源三郎(長男)。東京赤坂出身。父を3歳で亡くし、母も明治5年(1872)に亡くす。工部省電信寮で電信術を学ぶも気乗りせず、明治9年(1876)渡米するが留学を果たせず帰国。明治11年(1878)工部大学校造家学科(現東京大学建築学科)に入学。ジョサイア・コンドルに学ぶ。明治15年(1882)中退し、米コーネル大学に留学し、造科学士の称号を取得。明治18年(1885)英・仏・独・伊を巡遊し、建築学を研究して帰国し、内務省3等技師兼東京府土木課に勤務。明治19年(1886)内閣臨時建築局。のち公費で米・仏・独・墺諸国に差遣させられ、明治21年(1888)に帰国、工学博士となる。日清戦争中臨時帝国議会の広島仮議事堂建築を担当。明治38年(1905)大蔵省臨時建築局部長技師となり、大蔵省で多くの官庁施設を手がける。また、奈良の東大寺大仏殿修復に参加。なお、三大巨匠のあと二人は「辰野金吾」と「片山東熊」。設計:「横浜正金銀行」、「勧業銀行興業銀行」、「東京府庁」、「商業会議所」、「日本赤十字社」など。著書:「建築用木材及石材」。

墓は、寛永寺谷中墓地。乙13号2側標識の向かい通路角。正面「正四位勲二等工学博士妻木頼黄之墓/大正五年十月十日卒享年五十八歳」。