梅坊主(うめぼうず)/豊年斉    安政元年〜昭和2年2月13日(1854-1927)

    寄席芸人。東京出身・神田の髪結床の子として生まれる。願人坊主の系統(※1)で一座の者はいづれも剃髪し××坊主という。カッポレ(※2)を創始し人気を得た。長じて兄の平坊主とカッポレを大道芸として踊るが、梅坊主の方が有名になり本家とされた。大道芸にもかかわらず、9代目市川団十郎は、明治19年(1886)梅坊主の兄平坊主にカッポレを教わり新富座で踊り、これにより名声が上った。平坊主が早世したため梅坊主が一座を代表する。晩年、梅坊主を長男に譲り、平坊主を二男に譲り、自分は、豊年斎太平坊と名乗った。74歳。3代目は2代目の実弟が継承。弟子に櫻川ぴん助(1897-1987)がいて、襲名はしなかったが実質的に4代目を継承した。櫻川ぴん助没後、弟子の櫻川梅后が梅后流「江戸芸かっぽれ」を創流した。

※1 カッポレとは、「おかぼれ」のことで、男女の恋愛だけでなく、家族愛や人類愛など、広い意味での感謝・思いやりなど見返りを求めない愛情を表すという。

※2 願人(がんにん)とは、大道芸を生業とする下層の被差別民で、物乞いとほとんど同じ生業をしていた。そもそもは、京都の鞍馬寺の僧侶のたく鉢で行った大道芸を行う芸人だったが、40年も経つと街頭の大道芸で銭を稼ぐようになった。願人には、鞍馬大蔵院末と鞍馬円光寺末の2系統があって寺社奉行の管轄とされていた。明治4年(1871)8月28日いわゆる「穢多・非人賎称廃止令」(太政官布告)が出た後、長吏・非人・猿飼・乞胸・歌舞伎・座頭の身分呼称は廃止された。しかし「願人」だけは残り、正式になくなったのは、明治6年(1873)に東京府が特に「願人呼称廃止」を布告してからとなった。

墓は、長運寺墓地(谷中1-7-4)。