梅屋敷

    東京品川から西へ京浜地帯を走る京浜急行本線「梅屋敷」駅の東側口から5分ほど歩いたところに小さな「梅屋敷公園」がある。明治時代には、「花も優れて清白の一種なり。もと之れ梅実の為に植ゑし野梅なれど、花の盛んなる頃は、さながら雪など木に降りかかりたる如くにして、目を悦ばしむるに足れば、いつとなく其の聞えありて、安永天明の頃よりは江戸より来り見るもの多し」と武蔵風土記に記されるほど賑わった名勝だった。そもそも、上方より梅の木が伝わったのは千年も前のことだといわれていて、遠い昔からこの地が梅の産地として知られていた。この頃、「和中散」という腹の薬を売っていた薬屋があり、和中散を大森付近の三カ所で商売をしていた。山本忠左衛門という人がこの中の一つを薬の株とともに家屋敷全部およそ3000坪を買い受けたのが「蒲田梅屋敷」の始まり。忠左衛門の弟、久三郎が庭園に梅樹数百株を植え、種々の花木を栽植し、庭園を造営し、園内に亭を設けて人々の観覧に提供した。明治元年以来、明治天皇をはじめ、英照皇太后、照憲皇太后、大正天皇などの行幸があったのも「久三郎の梅屋敷」だった。山本家の商売は、最初は漬け物類を小皿に並べて出すような小さな茶屋だったが、品川から6kmという好立地の東海道沿いにあったため繁盛し店も大きくなった。しかし明治30年を過ぎたころ立ち寄った客の外国人に手水鉢がダイヤモンドであると騙され、商売そっちのけとなり衰退した。借金がかさみ屋敷を売りにだすこととなった。梅屋敷は山本家の手を離れて高田氏の所有に移った。高田氏は綺麗に手入れを続けたが、病死してしまった。そこで第百銀行(当時)の所有となった。銀行の手に移ってからは庭園の手入れは殆どされず、更に、所有者が京浜電気会社に移った後は、ただ腐朽するにまかせるばかりとなった。大正12年(1923)の関東大震災では大勢の被災者が庭園の建物内に入り込み、住み込んでしまった。この悲惨な状況を憂う人たちにより保存会が誕生。東京府知事に梅屋敷の現状を訴え、史蹟の仮指定を得た。その後、保存会が京浜電気会社と交渉しすべてを買い取った。さらにその後、昭和55年(1980)に梅屋敷の建て屋が谷中の瑞輪寺に移されるが、顛末は不詳である。(出典:http://lets-bb.com/umeyashiki/)