若井兼三郎(わかいけんざぶろう)    天保5年〜明治41年12月22日(1834-1908)

    画商・骨董道具商。東京出身。生家は浅草松山町の質屋を営み、古い文化財が見直される機運に乗り美術商に発展。明治6年(1873)ウィーン博覧会で唯一の美術品専門家として政府随行員として渡欧。のち、この種の博覧会のために政府の業務を代行する組織「起立商工社」を設立、副頭取となる。日本初の輸出貿易商となる。美術作品の製作・選定・売買を統括。明治11年(1878)パリ万国博覧会の際にパリ支店が開設されるとフランスに赴き自ら運営し、フランスへ日本美術を輸出。一方明治11年(1878)政治家佐野常民を会頭とした美術団体「龍池会」(後の日本美術協会)の設立に参加。明治15年(1882)「起立商工社」を辞め、パリで錦絵を販売し、日本ブーム「ジャポニスム」の火付け役となる。一時期、川崎造船所創立者の川崎正蔵の美術収集に協力する。75歳。因みに、妹しま女は、佐野常民の妾。
※ 森光俊様のご提供の故人歴情報もとに作らせていただいた。

墓は、谷中霊園 乙10号19側。かなり荒れている。夏は雑草に覆われていて見えない。正面「具会一処」「若井氏之墓」。撤去危惧墓。