鷲津毅堂(わしずきどう) 文政8年11月17日〜明治15年10月5日(1825-1882)
幕末明治期の漢学者。名、宣光・監。字、重光。通称、郁太郎・貞助・九蔵。号、毅堂・蘇州・泉橋外史。祖父、鷲津松陰。曾祖父は、医師で文人で学舎有隣舎の基礎をつくった鷲津幽林。父、幽林の孫の鷲津益斎(通称徳太郎)。尾張国丹羽郡丹羽村出身。代々古学流の家学を継ぎ、村に「有隣塾」を開いている。父に経史を学ぶが、父が若くして死去し母に厳しく育てられた。20歳のとき伊勢津藩の儒者猪飼敬所に師事、のち弘化2年(1845)江戸で昌平黌に学ぶ。嘉永3年(1859)清の魏源の「聖武記」を採用して、幕府の機嫌をそこなう。嘉永5年(1852)結城藩校教授。嘉永6年(1853)ペリー来航時に「告詰篇」を著し徳川斉昭に献呈。また、上総久留里藩に仕え儒員となる。安政元年(1854)江戸御徒町に居を構え熟を開き学生を教える。文久年間に久留里藩を辞し、慶応2年(1866)尾張藩の招きで幼少の藩主徳川義宣の侍読となる。翌年明倫堂教授、のち督学となって学政改革を推進し、冢田大峰(つかだたいほう)の定めた「読書次第」等を撤廃して新たな学則を定めた。尾張藩主徳川慶勝議定官となり上京、勤王の考えを持って藩論の統一に力をかした。また、戊辰戦争では隣藩を勤王に勧誘する。その後、徴士として京に入り、太政官権弁事、大学少丞、陸前国登米県の権知事を歴任。明治4年〜明治15年(1871-1882)司法省で大法官・5等判事・司法権大書記官。学士会員。長女つぼが永井久一郎に嫁し、小説家永井荷風の外祖父にあたる。58歳。贈正五位。著書:「毅堂集」、「親灯余影」。
墓は、谷中霊園乙8号10側。墓は神式。3基並んでいる中央。正面「司法権大書記官従五位勲五等鷲津宣光墓」。