渡部欽一郎(わたなべきんいちろう)    弘化2年〜明治19年8月25日(1845-1886)

    日本語の横書き・左起こしを提案し、制度となるきっかけを作った人。美濃大垣藩(岐阜県)出身。父、藩士・吉田益五郎(次男)。号、柳圃。明治3年(1870)権少属。明治4年(1871)出納少属。明治7年(1874)出納大属。以後累進し明治17年(1884)権大書記官(官吏の役職等級で5級)となり、翌1885年には勲六等単光朝日章を受章。あるとき井上馨大蔵大輔のお供で大阪造幣寮(庁)に行ったとき、西洋人の整然とした簿記を知り啓発され、帰京後に日本の簿記の横書き・左起こしを進言。それが制度にまでなったという。碑には、「渡部欽一郎が勤勉で功績を誇らなかった。長命であれば大きな業績を残したに違いない。4人の息子と2人の娘に『ひとに接しては正しく、文人や儒学者のようであれ。ものに対しては一心に励んで妥協してはいけない。詩歌と音楽を楽しんでゆったりと過ごしなさい』という言葉を残した」とある。42歳

碑は、谷中霊園甲1号9側。桜通りに面する。並木時習書「故渡部欽一郎君之碑」。墓は、浅草本願寺墓地。