山彦栄子(やまびこえいし)    天保9年12月28日〜大正11年11月1日(1838-1922)

    河東節藤岡流師匠。本姓、大深てい。父、江戸柳橋船宿藤岡家。浅草出身。初め藤岡の女主人である母徳子に習い、のち9世家元十寸見可慶(ますみかけい)と夫人山彦文子に師事し、流派の奥義を究め山彦栄子と号す。安政5年(1858)ころから活躍。明治8年(1875)には「諸芸人名録」に河東節の筆頭に記載されている。幕末から明治初年にかけて河東節を伝承し、多くの女性の弟子を育成する。

※ 河東節(かとうぶし)とは三味線音楽の一流派で、十寸見河東(ますみかとう:1684-1725)という浄瑠璃語りが語り始めたので河東節という。大正から戦前にかけて、赤坂・下谷・新橋の芸妓による河東節連中が歌舞伎の「助六」の芝居を支えた。名義継承は11世(1841-1919)まで行われ、その後は大正8年(1919)に組織された「十寸見会」が家元名義を預かっている。

墓は、長明寺墓地(谷中5-10-10)。山門からすぐ左に入る。正面「先祖代々之墓」。台石「藤岡」。碑は大正13年の3周忌に門弟と有志により建てられ、碑文は永井荷風。「是法院妙修日貞信女」。

※ 栄子(えいし)の読みは、日本人名辞典(講談社)による。