山田成章(やまだなりあき/せいしょう) ?〜明治31年11月16日(?-1898)
洋画家。大阪出身。はじめ医学校に勤務。明治4年(1871)大学少写字生準席から文部省権少録、同編輯寮出仕、文部省御御用掛。傍ら、横山松三郎が上野池之端通天樓の離れ茶室風の建物で開いた「洋画塾」で洋画を学ぶ。同じ時期に高橋由一も日本橋浜町一丁目に画学場を新築して、開いた「天階画塾」でも学んだとされる。明治16年(1883)東京大学御用掛。明治19年(1886)非職。のち、開成v中学・独協中学図画教師。第1回内国勧業博覧会に「松浦佐用姫別れを惜しむ図」および「仁徳天皇高き屋に登り御詠の図」を出品。第2回内国勧業博覧会に「聖帝脱衣寒氏を想う」を出品。門下に平瀬作五郎(ひらせさくごろう:1856-1925)・吉野寿吉らがいる。著書:図画教科書「画学法範」。
墓は、谷中霊園 甲7号4側。正面「山田成章之墓」。「霞岳院釈成章居士」。