山田宗偏(やまだそうへん)・初代    寛永元年〜永宝5年4月2日(16247-1708)

    表千家の宗家。名は、周覚のち周学。号は、四方庵、不審庵、今日庵、如竿子、力囲斎、宗円。父、仁科道玄。三河吉田出身。京都東本願寺派長徳寺の五世。はじめ小堀遠州の門に学ぶ。京都に移り、のち江戸に出る。千宗旦に師事し、学ぶこと9年、利休茶道の奥義を極め、四方庵の称号・利休伝来の四方釜等を授かる。32歳のとき師宗旦の推挙により、三州吉田(豊橋)の小笠原壱岐守に仕える。不審庵、今日庵を千宗旦より譲り受ける。晩年、門人の烏井宗逸に四方庵の称号を譲り、自らは、力口斎(りきゐさい)と号する。宗偏流と称するが、利休正統の茶道を伝えるものという。85歳。「不審庵」とは、茶道表千家流家元の茶亭で、表千家流やその邸すべてを指すこともある。著書:「茶道使蒙抄」、「茶道要録」、「茶具図絵」など。
※「偏」の字は、行人偏が正しい。

山田宗偏・10代     明治41年〜昭和62年11月22日(1908-1987)

     宗偏流不審庵第10代家元。父、8代山田宗有。昭和8年(1933)興業銀行入行。のち昭和18年(1943-1950)三島製紙常務。昭和38年(1963)10代家元を襲名。父没後、鎌倉に移る。親子2代が90年間にわたりトルコとの民間大使の役割をしたことに対して、昭和55年(1980)トルコ政府より文化勲章を授与される。勲三等瑞宝章。著書:「茶を語る」、「山田宗偏全集」。

以下、墓誌には10代までの記録があり、内容は下記のとおり。

山田宗偏 初代  「不審庵周学宗偏居士」 宝永5年4月2日歿 82才
       2代  「不審庵留学宗引居士」 享保9年3月29日歿 37才
       3代  「不審庵江学宗円居士」 宝暦7年3月20日歿 48才
       4代  「不審庵漸学宗也居士」 文化元年4月1日歿 62才
       5代  「不審庵靖学宗俊居士」 天保6年4月3日歿 46才
       6代  「不審庵義明宗学居士」 文久3年4月20日歿 54才
       7代  「不審庵清香宗寿大姉」 明治16年8月22日歿 62才
       8代  「不審庵外学宗有居士」 昭和32年2月13日歿 92才
       9代  「不審庵幽香宗白大姉」 昭和46年4月20日歿 71才
       10代  「不審庵成学宗偏居士」 昭和62年11月22日歿 80才

初代の墓は浅草本願寺内願竜寺。谷中霊園(甲1号12側)の墓には墓誌に10代までの記録があるが、実際に埋葬されているものはどれだか不明。たぶん、9代と10代。