山田武甫(やまだたけとし) 天保2年〜明治26年2月23日(1831-1893)
「徳の山田武甫」といわれ、教育界・実業界・政界と幅広く活躍。肥後(熊本市)出身。幼名は牛島五次郎。天保9年8歳の時、時習館に入って勉学、嘉永3年20歳の時、横井小楠の門に入った。嘉永5年22歳の時山田家を嗣いで、これより山田武甫と名を改めた。幕府により長州征伐の命がでたときは、喜悦氏房らの同志とともに藩中の論議をまとめ、また、上洛して土佐の坂太・縫馬や薩摩の西郷隆盛らと会談し奔走した。鳥羽の変となっても熊本の藩論はなお佐幕派の勢力が強かったが、藩主護久公らを説得、政府側に立ち維新にあって面目を維持することができた。以後、雑税を廃し百姓を助け、木履や雨傘を禁ぜられ、衣服にも制約をつけられていた平民に対し、これを撤廃した。明冶4年廃藩置県となって、熊本県参事になった。この間に時習館、再春館を廃し、新たに熊本洋学校と医学校を創立した。明治7年44歳の時、彼は敦賀県令に任ぜられたが明治9年敦賀県が廃止されたのをきっかけに官職をやめ、熊本に帰って蚕業会社の社長となる。明治14年以降政治活動をはじめ、立憲自由党をつくり、明冶23年7月第一期衆議院議員に当選。病死。63歳。