山田良政(やまだよしまさ) 明治元年〜明治33年(1868-1900)
青森県弘前出身。父、津軽藩士(長男)。青森師範学校に学んだが、食事を不満とする寮騒動の首謀者として身代わりになり退学処分となった。東京に出て陸羯南(くがかつなん)に師事。陸に勧められ中国語を学んだ。その後、北海道昆布会社の上海支店勤務赴任のため大陸に渡った。明治27年(1894)8月、日清戦争が勃発し、良政は陸軍通訳官として従軍した。良政は中国の革命同志を助け、このため孫文が明治32年(1899)に神田に住んでいた良政を尋ねて来た。ここで、孫文の支援を約束した。日本政府も孫文の支援を約束したが、内閣が替わり約束を破った。中国に渡り革命軍を支援して明治33年(1900)清国官軍に捕らえられ処刑された。明治45年(1912)に孫文が辛亥革命に成功し、翌年、準国賓として来日して、東京谷中の全生庵に「山田良政之碑」を建設した。遺骨は孫文が探させたが見つからなかった。
碑は、全生庵墓地(谷中5-4-7)。山門より入り右手。円朝碑の隣り。孫文撰文。「同志であった山田良政のアジアのために捧げたその志は不朽である」とある。