山路徳風(やまじよしつぐ)    宝暦11年〜文化7年1月27日(1761-1810)

    歴算家。父、陸前仙台藩の小倉助左衛門雅久(二男)。母、湯本文十郎輝胤の娘。本姓、始め小倉氏のち平。通称、才助。山路之徽(ゆきよし)の養子。和算家初代山路主住→2代山路之徽→につぐ3代目。安永7年(1778)18歳のとき養父の逝去にともない跡を継ぎ小普請組になる。安永9年(1780)12月22日将軍徳川家治に拝謁。寛政2年(1790)8月8日天文方になる。寛政3年(1791)12月29日西洋暦法で七曜暦を作成。寛政8年(1796-1797)8月5日改暦御用を命じられ、上京して改暦事業に加わる。「光元院殿白峰道融居士」。50歳。

山路諧孝(やまじゆきたか)     安永6年〜文久元年5月30日(1777-1861)

     幕府天文方。父、山路徳風。初名、金之丞。通称、弥左衛門。文化6年(1809)幕府暦作測量御用となり、翌年に父の跡を継ぎ幕府天文方となる。文政12年(1829)シーボルト事件で処罰された高橋景保に代わって蘭書翻訳を命ぜらる。以後、オランダ天文書の翻訳に従事。天保8年(1837)には寒暖計を製作し献上。天保9年(1838)には翻訳書「西暦新書」を献上、また「新修五星法」を編集。弘化3年(1846)息子の山路彰常が天文方となり、親子で勤める。嘉永2年(1849)鉄砲奉行・箪笥奉行を兼務。安政元年(1854)望遠鏡を品川に設置し、眺望図を作成。安政3年(1857)幕府の蕃所調所設立に伴い、蘭書和解御用を引継ぎ、航海暦の編集などをおこなう。安政5年(1859)隠居。 84歳。

墓は、大泉寺墓地(谷中6-2-13)。墓地に真っ直ぐに入り、突き当りを左に行き、さらに突き当りを左に行き数基目。東武蔵墓の隣りと後ろ側。ご住職のお話によると、山路家の墓は、ここにある3基(写真の前2基と後ろの1基)だけ。墓碑上での記録からはっきりしているのは、山路徳風墓のみで、他は、山路諧孝墓と常彰の娘の墓だと某資料は言うが、戒名も没年も合わない(ご住職も承知していた)。山路諧孝墓と言われる墓碑の左隣の小さな墓碑は、3名の女性のもので、誰かの夫人のものとご住職は言われた。ここで、資料の言う「常影」が誰だか不明。結論としては、山路主住(ぬしずみ:1704-1772)墓と、その子の山路之徽(やまじゆきよし:1729-1778)墓はない。なお、山路諧孝の父は、山路徳風と某資料はしているが、16歳のときの子ということになる。