山川幸喜(やまかわこうき) 天保3年〜明治44年9月19日(1832-1911)
明治天皇侍医。高知県出身。文化2年(1805)江戸表山内容堂公典医加役。藩侯侍医・開成館医局教授。のち側医本役。明治2年(1869)上京して明治天皇侍医の一人・侍医局頭取。明治4年(1871)宮内省9等出仕・権少侍医。明治8年(1875)宮内省6等侍医。明治10年(1877)辞官し、数寄屋橋に開業。正七位。80歳。妻は、須磨。
山川須磨(やまかわすま) 天保8年〜大正11年1月8日(1837-1922)
山川幸喜の妻。父、白札郷士桧垣清右衛門。須磨は「土佐小町」と言われたほどの美人で、阪本龍馬もプロポーズしたという。龍馬は、「結婚してくれなければ切腹する」と迫ったが、あっさり袖にされ、切腹もせずにスゴスゴと帰っていったという。なお、須磨の実弟は土佐勤王党の桧垣清治(1839-1894)。
山川幸雄(やまかわゆきお) 慶応4年〜大正11年5月26日(1868-1922)
明治期の法学士。父、山川幸喜(長男)。高知県出身。明治18年(1885)ドイツ留学。明治33年(1900)ゲッチンゲン大学の法律ドクトル試験にパスして帰国。明治35年(1902)京都第3高等学校教授。明治40年(1907)法政大学・日本大学講師、ドイツ語と法律を講義。高等官2等。大正2年(1913)第1高等学校教授。正五位。55歳。門人に坪内清助。大正2年には芥川龍之介にもドイツ語を教える。著編:「独逸故事熟語字彙」。
山川幸世(やまかわゆきよ) 明治37年3月23日〜昭和49年12月23日(1904-1974)
築地小劇場最後の舞台演出家。父、山川幸雄。京都出身。2歳で父の転勤に従い上京。大正14年(1925)同志社大学英文科第1過程本科に入学。在学中に築地小劇場主催の夏季研究会に参加。「同志社演劇研究会」を起こす。昭和3年(1928)同志社大学英文科卒業。築地小劇場に演出部研究生として入団。のち劇団が分裂し、昭和5年(1930)脱退し、滝沢修と「左翼劇場」に移る。昭和6年(1931)演劇の方をおろそかにして、労働運動に走る。昭和8年(1933)2月警察に検挙される。釈放後演劇界に戻る。昭和11年(1936)新築地劇団に入団。昭和15年(1940)内紛により脱退。同年「新劇事件」により検挙される。太平洋戦争の始まった昭和16年12月に保釈。戦時中は、東方社でグラフ雑誌の編集に携わる。昭和21年(1946)演劇の仕事に復帰。昭和23年(1948)舞台芸術学院の設立に参画。昭和30年(1955)病を得て入院、生活保護を受ける。心不全により没する。共産党員であった。70歳。著書:「日本音声学の実際」、「正しい言葉の訓練」、「ある演劇人の軌跡」。演出:「女人哀詞」、「ハムレット」など。
墓は、谷中霊園 甲9号13側。正面「山川家累代之墓」。