山本東次郎(やまもととうじろう)・初世 天保7年〜明治35年11月28日(1836-1902)
能狂言役者。大蔵流初世。東京出身。名、山本東次郎藤原則正。前名、作次郎・登也・次郎太。元豊後中川藩江戸詰藩士。藩命により大蔵流倉谷派宮野孫左衛門に師事。明治維新時大分に疎開、明治11年(1878)東京に戻り大蔵流を代表して活躍。隠居後は山本東(やまもとあずま)を名乗る。「普照院玄徹道東居士」。
山本東次郎(やまもととうじろう)・2世 元治元年8月2日〜昭和10年9月1日(1864-1935)
能狂言役者。大蔵流2世。東京出身(豊後中川藩江戸屋敷で生まれる)。名、山本東次郎藤原則忠。幼名、泰太郎。父、初世山本東次郎(長男)。5歳で初舞台。明治31年(1898)東次郎を襲名。能楽協会を創立し理事を務める。「玄徳院東岳道範居士」。
山本東次郎(やまもととうじろう)・3世 明治31年9月26日〜昭和39年7月26日(1898-1964)
能狂言役者。大蔵流3世。前名、河内晋(すすむ)。2世の養子となり山本晋となる。父、河内茂男(二男)。兄は4世東次郎。大分県出身。東洋大学卒。明治40年(1907)2世山本東次郎に入門。明治41年(1908)初舞台。昭和10年(1935)養父没後家督相続し、3世山本東次郎を襲名。昭和22年(1947)から全国の中学・高校を巡演し狂言の普及に努めた。昭和26年(1951)山本舞台を杉並音楽堂とした。昭和32年(1957)日本能楽会会員。著書:「間狂言の研究」。長男則寿(のりひさ)は、4世。「玉徳院盛光東誉居士」。
墓は、多宝院墓地(谷中6-2-35)。山門よりすぐ左側のフェンスドアを入り、すぐ左側通路へ行き左側。