安井顕比(やすいあきちか)     天保元年6月12日〜明治26年9月7日(1830-1893)

    金沢藩権大参事。字、士順。通称、和介・源太郎。号、青軒・錦山。金沢出身。加賀藩士。父、安井顕久。改作奉行・壮猶館横目・軍艦奉行を歴任。勤王家で文久・元治の激動期に加賀藩勤王党を支援。明治元年(1868)前田直信に従い上洛、太政官御用掛。長州藩の木戸孝允・大村益次郎・広沢真臣らにつなぎ、国家老本多政均の入京時に、大村益次郎に会わせ、加賀長州連合を図り、遅れをとった加賀藩を新政府の主流にのせるべく尽力。内国事務局権判事として新潟に在勤し、北越戦争では軍務局をかねる。を経、明治3年(1870)金沢藩権大参事。のち、藩知事前田慶寧の命で世子利嗣の教育掛として東京へ随伴した。明治6年(1873)三条実美に蝦夷地開拓の建議書を出す。のち、官界を退き、藩史料編纂に従事。64歳。

墓は、谷中霊園 甲新13号39側。正面「安井顕比之墓」。