米倉一平(よねくらいっぺい)    天保2年〜明治37年6月1日(1831-1904)

    実業家。幼名、永一。父、米倉市右衛門。豊後日田郡陣屋廻村(大分県)出身。年少で富豪草野忠衛門に仕える。23歳で米や物産の行商を始める。征長の役では命じられて兵糧賄方となり、郡代支配所金米方頭取となる。郡代の命により西郷隆盛らと往来したが幕吏に捕えられ投獄。逃げて京都に行き西郷の旅館に隠れ、翌年鳥羽伏見の役で功績をあげる。明治元年(1868)日田県知事松方正義の下で殖産掛となる。明治2年(1869)辞して清国に外遊し、帰国後製茶場を長崎に設け、明治4年(1871)東京蛎殻町に第五国立銀行(浪速銀行)を設立、取締役となる。日本最初の株式会社「中外商業社」を設立。明治6年(1873)東京米穀取引所創設。明治9年(1876)蛎殻町に米商会社を起こし社長となり、米界株式界にて辣腕を揮う。明治19年(1886)辞職したが、明治24年(1891)2代目社長の投資の失敗で、資本金の5倍を超す損失を出すが、この難局を乗り切る。当初立身した蛎殻町で没する。
※ 「米屋町を産み育てた男」として、鍋島高明著、河出書房新社の「賭けた 儲けた 生きた」に小説となっている。74歳。

墓は、谷中霊園乙2号6側。ニコライ墓前通路向かい。正面「米倉一平/仝 久良子 之墓」。