四辻公賀(よつつじきんよし) 天保11年7月19日〜明治13年12月19日(1840-1880)
越後府知事・宮内権大丞。父、権大納言四辻公績(二男)。母、正二位権大納言広橋胤定の娘広橋麗仙(1812-1882)。典侍四辻清子の弟。兄、四辻公建の死により嫡子となる。嘉永5年(1852)12月従五位下。嘉永6年(1853)元服し昇殿を許される。文久元年(1861)1月侍従。文久2年(1862)右少将。慶応元年(1865)12月参議。明治維新の際、右宰相中将。明治元年(1868)7月越後府知事。同年9月3等陸軍将、従三位。明治2年(1869)1月辞退。同年7月平松時厚・梅渓通善らと宮内権大丞。明治3年(1870)雅楽助。明治4年(1871)8月式部寮7等兼大掌典。明治6年(1873)6月大伶人。明治7年(1874)大伶人兼務。明治10年(1877)4等伶人。正三位。室は、正親町実徳の二女順子。41歳。
四辻家は、鎌倉時代西園寺公経の四男、四辻実藤によって創立され、四辻とする。四辻公賀の養子室町公康によって家名を四辻から室町に改める。明治17年室町公康に対して、伯爵位を授けられた。室町家(むろまちけ)は、羽林家の家格を有する公家。藤原北家閑院家流。西園寺家の一門。家業は和琴、筝。
墓は、谷中霊園 甲7号1側。伊集院兼常墓(甲1号12側)の通路交差点の反対側。四辻公賀室の正親町順子(おおぎまちよりこ?)墓および母で四辻公績室墓「廣橋麗仙墓」に並ぶ。正面「正三位四辻公賀卿墓」。