阿部重次(あべしげつぐ)    慶長3年〜慶安4年4月20日(1598-1651)

    武蔵国岩槻藩2代藩主。老中。幼名、作十郎。父、阿部正次(次男)。三浦重成の養子となるが実子が生まれたため別家し近江国浅井郡に3000石を分与された。寛永5年(1628)兄の政澄が死去にともない、安部家に復帰。同年3月23日松平信綱・従兄の阿部忠秋・堀田正盛・三浦正次・太田資宗らと幕政に参加。寛永15年(1638)老中となる。慶安4年(1651)4月20日将軍徳川家光の死に殉じた。このときには急速な出世のため99,000石余りとなっていた。54歳。

墓は、現龍院墓地(上野公園15-25)。「芳松院全巌浄心大居士」。日光市の妙堂院釈迦堂にも葬られている。