掘田正盛(ほったまさもり) 慶長13年12月11日〜慶安4年4月20日(1608-1651)
江戸前期の武蔵国川越藩主・信濃国松本藩主・下総国佐倉藩主。父、旗本堀田正吉(長男)。母は稲葉正成の娘で、正成の後妻の春日局は義理の外祖母。妻は、酒井忠勝の娘。三代将軍徳川家光に仕え寛永10年(1633)老中並となり急激に昇進し、寛永19年(1642)には下総佐倉に11万石を領し、家光の体制下で活躍した。慶安4年(1651)家光が亡くなったとき、老中の掘田正盛は阿部重次ら12人と共に殉死した。その後、寛文3年(1663)幕府は殉死禁止令を出したため最後の殉死となった。掘田家は佐倉藩において、代々藩主が、徳川幕府の重要な役職である老中や大老を勤められる家柄であった。掘田正盛は閣老という地位だった記録がある。慶安の頃、医師奈良玄竹が閣老堀田正盛の重症を治して謝礼として二千金を受けたという。
墓は、現竜院(上野公園15-25)。「玄性院殿心隠宗◇大居士」。左隣りに正室の墓(写真右)もある。延宝3年10月晦日歿。「正統院殿華岳宗栄大姉」。品川の東海寺に供養墓がある。