足立八蔵(あだちはちぞう)/安立正声(あだちまさな) 天保12年9月22日〜明治40年4月19日(1841-1907)
明治期の宮内省書記官・掃苔家。本名、足立正声。字、興卿。通称、八蔵。号、老狸・碌碌山・天瀑・楽石山人。父、因幡鳥取藩士足立中和(二男)。鳥取県出身。鳥取藩士。男爵。文久元年(1861)大西正虎と共に江戸で芳野金陵に師事。文久2年(1862)鳥取藩国事周旋方。尊王の志を抱き、王事に奔走、京都本圀寺の重臣暗殺事件に参加。文久3年(1863)「鳥取20士事件」に連座し、鳥取荒尾家に幽閉されるが、慶応2年(1866)幽閉中同志と共に脱出、長門に行き山口明ロ倫館で兵学を修める。のち大村益次郎に西洋軍学を学ぶ。新国隊副督。明治3年(1870)伊那・浜田両県大参事。京都在謹の折、海江田弾正大忠の不在に乗じて大村益次郎暗殺犯人薩摩藩某を四条河原で斬首の刑に処して官を免ぜられる。明治7年(1874)ころ教部省7等に出仕。明治8年(1875)教部少丞。明治10年(1877)内務少書記官に還り寺社局長。明治11年(1878)宮内権少書記官。明治15年(1882)宮内権大書記官となり、狩猟官頭兼諸陵頭。明治21年(1888)宮内書記官となり東宮亮。など歴任。
明治39年(1906)男爵。画人だが考古学にも興味を持っていた蓑虫山人(みのむしさんじん:土岐源吾:1836-1900)とも親交があり、古墳の発掘を共にした。正四位勲三等。67歳。著書:「剥蘓集」、「礫室遺草」、「桜花集」。
墓は、谷中霊園甲8号20側。足立正声墓は碑(日下部鳴鶴書)と兼ねているらしい。2005年に墓区画を整理し周辺の木々は取り払われている。