芳野金陵(よしのきんりょう)    享和2年12月20日〜明治11年8月5日(1802-1878)

    幕末の儒者。本名、立蔵。名、成育(世育?)。字、叔果。通称、愿三郎。水戸藩の儒臣。下総国相馬郡松ヶ崎(葛飾郡説あり)出身。父、医師の芳野南山(二男)。文政6年(1823)江戸に出て亀田鵬斎(亀田綾瀬)に師事、ついで鵬斎の子綾瀬に師事。文政9年(1826)浅草福井町に塾を開く。弘化4年(1847)駿河田中藩主本多正納に仕えて、禄100石の異例の抜擢を受け、藩政改革・文教刷新に多くの功績を残した。文久2年(1862)幕府に抜擢され昌平黌教授となり、のち博士となる。安井息軒、塩谷宕陰とともに文久三博士と称された。明治元年(1868-1870)大学教授(大学中博士)。免ぜられて後は、現在の文京区教育大のあったあたりの土地を買って、墾田に従事、傍ら塾「占春園」を開き、子弟を教育し、著作に専念した。子に芳野桜陰(芳野新一郎)がいる。77歳。著書:「金陵文抄(2巻)」、「金陵遺稿(10巻)」。

墓は、天王寺墓地。桜通りの標識の通路奥、突き当たり左側ステンレス鎖内。塩谷宕陰墓は、突き当り右側銀杏の木の下の繁みの中。正面「金陵芳野先生之墓」。「文康院天真道晃居士」。