赤井景韶(あかいかげあき)    安政6年9月〜明治18年7月27日(1859-1885)

    上越地方の急進的青年民権家。父、越後高田藩士赤井喜平(長男)。中頸城郡高田木築町出身。幼名、乙五郎。赤井家は高田藩の下級士族で、父喜平は明治元年(1868)の戊辰戦争で戦死し、母子家庭となった。西南戦争では、神奈川県巡査として戦地に赴く。のち故郷の越後に帰り代言人を開業。高田に自由党が結成されるや入党して党務に尽力。明治初期、自由民権思想の反政府運動は、明治16年(1883)3月「高田事件」を起こした。赤井景韶は、これに連座、内乱罪で収監、重禁獄9年の実刑となる。裁判官は玉乃世履であった。その後明治17年(1884)に松田克之とともに脱獄するも、松田は程なく逮捕され、赤井は逃亡途中で人力車夫を殺害し警察は名誉にかけての大捜査網を敷いた。世間では、逮捕地を賭けるといったことが行われたという。山田賢治という偽名で逃げ回っていたが、9月10日に大井川橋際で逮捕となる。明治18年7月27日死刑となる。辞世の句は、
   「青葉にて散るともよしや楓葉の
        あかき心は知る人ぞ知る」
遺骸は、小島周治と実弟新村金十郎が引き取り谷中墓地に葬った。

赤井景韶墓
墓は、谷中霊園甲8号6側。五重塔跡地の鉄柵の角。桜通りに面する。正面「赤井景韶君之墓」。ただし、上越市金谷山和親会墓地にもある。なお、裁判官の玉乃世履の墓は、桜通りを挟んだ反対側のブロックにあるのも何らかの因縁か。墓の右に自由民権同志の建てた河野広礼撰書による略歴が書かれた碑がある。 無縁撤去危惧墓。