玉乃世履(たまのせいり) 文政8年9月3日〜明治19年8月9日(1825-1886)
初代の大審院長・幕末の朱子学者。旧岩国藩士の家に生まれる。藩儒玉乃九華や二宮錦水に師事。玉乃九華の養子となる。後に藩命で上京し梁川星厳・斎藤拙堂・山田方谷らに学ぶ。尊王の頼三樹三郎、梅田雲浜らと交遊の傍ら、西洋兵学の必要を説き、農兵の洋式訓練などに携わる。安政2年(1855)藩に帰り藩校「養老館」教授となり、洋式農兵を組織し、慶応2年(1866)第2次幕長戦にこれを率いて参戦する。明治維新以後、再び上京し民部卿大丞・東京府権大参事を経て、司法権大判事となる。明治7年(1874)旧藩債務のイギリス側提訴事件を見事に処理する。明治11年(1878)初代の大審院長となる。明治19年(1886)に大審院長に再任。8月9日公用の書類をすべて処分して深夜に自宅で自殺した。その死因は不明だが、重病を苦にしたとも、大官の罪をあばくに忍びなかったとも言われる。後の昭和5年(1930)刊行の「伊藤痴遊全集」に「大審院として、令名の高かつた玉乃世履といふ人は、法律を知らずして、院長になつて、名法官の名を成した人である。」という一節があるように「今大岡」と称えられた。62歳。娘のフミは、陸軍少将鼓包武の妻。
墓は、谷中霊園甲9号17側。鳥居がある。墓石は見上げるほど高い。正面「大審院長従三位勲二等玉乃世履墓」。顕彰碑は、天王寺墓地内だが、さくら通り西側に面する。案内板が立っているし、非常に大きいのですぐわかる。
自由民権運動家である赤井景韶を裁いたが、赤井の墓は五重塔跡地の児童遊園さくら通り側角にある。