天野市太郎(あまのいちたろう/天野一太郎    慶応3年〜昭和8年9月27日(1867-1933)

    加波山事件の処罰者18名うちの一人。父、三春藩士天野一八(長男)。福島県三春出身。壮士琴田岩松とは従兄弟。父は、戊辰戦争で河野広中らと従軍し会津を攻めて母成峠で戦死したため母よしの実家真城家に引き取られ貧乏に育った。母は、のち船引きの御代田耕作と再婚した。福島事件に怒り、琴田岩松の勧め鯉沼九八郎に近づき、三島暗殺計画に参加。民権派の「正道館」で学び、高知より招聘された西原清東・広瀬重政から強い思想的影響を受ける。明治16年(1883)山口守太郎・大高末時ら「正道館」の17歳組で東京に出る。明治17年(1884)「加波山事件」を起し捕われるが、政治犯でなく強盗などの罪で裁かれ、当時17歳だったこともあり、無期刑となった。明治27年(1894)特赦により出獄。以後、荒れた生活を送った。

墓は、甲8号2側。河野広中ら有志によって建てられ、他の加波山事件処刑者の墓に追加で名前が彫られている。一般的には「市太郎」だが、墓には「一太郎」となっている。