加波山事件の墓(かばさんじけんのはか)

    明治17年(1884)自由民権運動弾圧のため高知に避難していた青年民権家たちが加波山(茨城県)で決起した。福島県令と栃木県令を兼ねた三島通庸(みしまちつね:1835-1888)が自由党員を弾圧、また、不況下の農民に道路建設の労役を課そうとし、明治19年(1886)9月23日新栃木県庁舎落成式の日に青年民権家16人が三島通庸の暗殺を計画し失敗。逃れて「自由の魁」の旗のもと加波山神社に立てこもり、真壁町の分署を襲いに行ったが未遂で全員逮捕された。7名が死刑となり9名が重罪となった。自由党はこれにて解散となった。

三浦文治(みうらぶんじ)     安政3年〜明治19年10月2日(1856-1886)

     福島県出身。父、旧家真部喜一(二男)。三浦家の養子となる。自由民権家の三浦信六は本家、文治の妻は、信六の妹。権利回復同盟副総理。明治11年(1878)喜多方の「愛心社」に入る。明治12年(1879)〜明治15年(1882)春まで警視庁巡査を勤め、のち自由党急進派に一転する。会津自由党米岡組幹事・道路反対闘争訴訟委員・自由党特派遊説員・「弾正が原事件」に関係し2カ月間の監禁となる。「福島事件」で捕らえられる。明治16年(1883)2月国事犯として東京に護送されるが、4月に釈放され福島に帰る。のち相次ぐ弾圧に合法手段の限界を感じ、革命同盟に入り加波山事件に参加、中心人物となる。三浦文治の残した言葉「わが子よ。父は身の肥ゆるを欲せず、志の肥ゆるを欲す。

横山信六郎(よこやましんろくろう)     文久3年〜明治19年9月3日(1863-1886)

     福島県若松出身。父、池上信三(三男)。旧会津藩士の家柄から出た異色の民権家。17歳のときたまたま栃木に出奔、鯉沼九八郎と会い大きな影響を受け、その食客となる。一時栃木県巡査となる。片岡桂斎に漢籍を学ぶ。のち榊原経武の食客となる。明治17年(1884)同志獲得のため明治法律学校に入り、帰郷して同年加波山事件を起こす。同志解散後、東京へ行き早稲田の栗原足五郎宅を経て甲州に入り、会津自由党員神山亮(八弥)宅に泊まっていて逮捕となる。政治犯ではなく強盗殺人の破廉恥罪として死刑となるが、執行前に獄中死する。23歳。

小針重雄(こはりしげお)     元治元年〜明治19年10月2日(1864-1886)

     福島県白河群出身。白河の大庄屋に生まれる。12歳で伊達郡梁川小学校助教。明治12年(1879)15歳のとき須賀川医学校に入学、翌年東済生会医学舎に入学、さらに翌年大学医学部に入学するも「福島事件」を契機に政治活動を始め、「福島事件」を支援するために帰郷。のち「加波山事件」に参加。浜松で捕らえられ、政治犯ではなく、強盗殺人の破廉恥罪で死罪となる。22歳。

琴田岩松(ことだいわまつ)     文久2年〜明治19年10月2日(1862-1886)

     福島県出身。父、三春藩士琴田長発(半平)(二男)。19歳とき上京、岡千仞の塾に入る。東京で遊学後、三春正道館発行の三陽雑誌編集長。「福島事件」に参加。福島と栃木の同志の橋渡し役となる。壮士としての代表的な性格。のち、「加波山事件」に参加。政治犯ではなく、破廉恥罪で死刑となる。24歳。

加波山事件受刑者
   墓は、谷中霊園甲8号2側。安立院前近く。谷中霊園の墓碑は三浦文治横山信六小針重雄および琴田岩松の4名の墓で、首領の富松正安の名はない。なお、三浦文治と横山信六の墓は、会津盆地北端にある示現寺(曹洞宗)の観音堂近くにもある。平尾八十吉・富松正安・保多駒吉・玉水嘉一の墓は、筑西市妙西寺にある。平尾八十吉の墓は、真壁町の真徳寺にもある。当谷中霊園の「墓」は、顕彰碑の意味合いがあるのかも知れない。「天野一太郎」名が後から追加されている。没年日は、明治19年9月3日・明治19年10月2日・同・同となっている。福島交通社長の小針家で建立したもの。