荒尾精(あらおせい) 安政6年6月25日〜明治29年12月6日(1859-1896)
清国貿易の先覚者。名、義行。幼名、一太郎。号、東方斎。父、尾張藩士荒尾義済。尾張出身。幼児期に父に従い鹿児島に移住。明治4年(1871)上京し商売を始めるが頓挫する。某警察幹部の家で書生をしていて、欧米列強のアジアでの動きを知り軍人を志し、権中警部菅井誠美の資金を得て「教導団」に入り明治12年(1879)卒業。軍曹となり明治13年(1880)陸軍士官学校に入り明治15年(1882)少尉。明治18年(1885)参謀本部支那課勤務。明治19年(1886)清国に渡り薬屋に化けて現地情報を収集した。明治22年(1889)帰国し、清国を救い日清両国が相互に発展すべしと説いた。明治23年(1890)荒尾は軍を辞め、「貿易富国」を担う人材育成のために上海に「日清貿易研究所」を設立した。明治27年(1894)日清戦争が始まったが、領土割譲要求や賠償金の要求をするなと説いた。明治29年(1896)台湾で事業を始めようとしたがペストにかかり台北避病院で客死。死に際に「ああ東洋が」と言い、アジアの行く末を案じたという。旭日小綬章。大正4年11月10日贈従五位。
墓は、全生庵(谷中5-4-7)。山岡鉄舟墓の西(向かって左)側方向。正面「贈従五位/東方斎荒尾精之墓」。「不退院釈勇精居士」。