山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)    天保7年6月10日〜明治21年7月19日(1836-1888)

    幕末明治前期の剣客・政治家・子爵。本名、高歩(たかゆき)。通称、鉄太郎。字、曠野・猛虎。号、別号、一楽斎。父、小野朝右衛門(旗本)、母、磯。江戸出身。幼少時より江戸の千葉周作の玄武館に入り北辰一刀流を修め、のち自ら無刀流をあみだし、「春風館」という道場を設立。槍は山岡静山(高橋泥舟の兄)の門弟。玄武館時代の同僚である清河八郎(1830-1863)が万延元年(1860)頃に結成した「虎尾の会」に、石坂周造松岡満池田徳太郎、美玉三平(1822-1863)、村上俊五郎、ほか薩摩藩士らと共にメンバーに加わっている。
   やがて幕府に任ぜられ高橋泥舟らとともに江戸の治安にあたる。文久3年(1863)から浪士組(後の新選組)の浪士取り締まりとなる。明治元年(1868)徳川慶喜の警護にあたる精鋭隊隊長に任じられ、慶喜が恭順の意志を示していることを官軍に知らせるに勝海舟の使者として駿府に赴き、西郷隆盛勝海舟会談を周旋して江戸城明け渡しへの道を開いた。剣の達人でありながら人を切るようなことはしなかったといわれている。山岡静山(1829-1856)が早世すると安政4年(1857)頃泥舟は妹英子と結婚させ山岡家を継がせた。したがって、高橋泥舟の義弟にあたる。
   明治維新後は、明治2年(1869)静岡県権大参事、のち茨城県参事・伊万里県知事を歴任し、明治6年(1873)明治天皇の側近として、宮内大丞・宮内大書記官・皇后宮亮・宮内少輔などを勤めた。明治15年(1882)官を辞し、明治16年(1883)全生庵を建立。母親の磯は塚原岩見(常陸鹿島神宮)の次女で、この家系からは剣豪として名高い「塚原卜伝」を輩出している。52歳。



辞世: 腹いたや苦しき中に明けがらす・・・と口吟み死を知り白衣を着て座禅の姿で逝く。
墓は、全生庵(谷中5-4-7)。墓地ほぼ中央。正面「全生庵殿鐵舟高歩大居士」。碑は山門より右側、鐘楼の脇にあり、勝海舟安房書。夫人墓は、すぐ脇にある。