村上俊五郎(むらかみとしごろう/しゅんごろう)    天保5年〜明治34年6月21日(1834-1901)

    浪士組上洛時の道中目付六番小頭。名、政忠。阿波国(徳島県)美馬郡出身。 武術にすぐれ佐原(佐原市)で剣術の道場を開いていた。万延元年(1860)頃清河八郎(1830-1863)が結成した「虎尾の会」に、山岡鉄太郎石坂周造池田徳太郎・美玉三平(1822-1863)・松岡満、ほか薩摩藩士らと共にメンバーに加わる。浪士組東帰後の4月13日に清河八郎が暗殺されると、翌日にはその同志して捕縛され、伊勢菰野藩に預けられた。性格は粗暴でNHKの大河ドラマでは、歩き疲れた村上俊五郎が、六番組の宿案内をしている山南敬介に、「水を桶に汲んで来い」と言ったとき、「私の担当ではない」と山南が断り、村上が刀を抜いたシーンがある。明治維新以後は勝海舟の配下となった。68歳。

墓は、全生庵(谷中5-4-7)。棚橋絢子墓の西(後ろ)側方向。墓標は「村上家之墓」。墓誌など他に記録が無く確認できないが、この件に詳しい方に教えていただいた。