池田徳太郎(いけだとくたろう)/池田種徳(いけだたねのり)    天保2年10月〜明治7年9月12日(1831-1874)

    芸州藩士。尊皇攘夷の志士。広島忠海出身。父、忠海町医池田元琳(長男)。別名、池田種徳。8歳で入野村の清田黄裳の塾に学び、11歳で豊前中津の常藤頼母に師事、15歳で豊後の儒学者広瀬淡窓(1782-1856)に師事、筑前の亀井革卿の塾で塾長となる。19歳で帰郷し病死した黄裳にかわって清田塾を運営。安政元年(1854)江戸に上り昌平黌に入る。万延元年(1860)頃に清河八郎(1830-1863)が結成した「虎尾の会」に、山岡鉄太郎石坂周造松岡満、美玉三平(1822-1863)、村上俊五郎、ほか薩摩藩士らと共にメンバーに加わっている。新選組の前身である浪士募集には清河八郎、山岡鉄太郎とともに池田徳太郎も尽力するが、新選組になる前に退組、故郷に帰った。ふたたび江戸に出て元治元年(1864)には芸藩に属し、藩の重要事件に関し密使として活躍。坂本龍馬(1835-1867)とともに連名簿に名を連ねる。維新後は知事や県令・青森権令・参事などを歴任。NHK大河ドラマ「新選組」で、浪士組(後の新選組)が本庄宿に宿泊する際、芹沢鴨の宿を取り忘れた事件があり、そのときの宿割役だった。

 
墓は、谷中霊園 甲1号5側。正面「贈正五位/故青森◇権令正六位池田種徳墓」とある。池田徳太郎の顕彰碑は、広島県忠海町の八幡神社境内にある。