松岡萬(まつおかつもる/よろず/むつみ)    天保9年〜明治24年3月17日(1838-1891)

    新選組メンバーを募集した人。号、古道。父、旗本鷹匠組頭。江戸小石川小日向出身。講武所・中村敬宇らに師事。この間、山岡鉄舟らと親交をもち、幕府精鋭隊員に属する。幕臣でありながら熱烈な尊王論者で、安政の大獄(1858-1859)で処刑された頼三樹三郎(1825-1859)の片腕を小塚原の刑場から盗み出し、神棚に供えて祀ったというエピソードがある。この頃清河八郎(1830-1863)が結成した「虎尾の会」に、山岡鉄太郎石坂周造池田徳太郎、美玉三平(1822-1863)、村上俊五郎、ほか薩摩藩士らと共にメンバーに加わっている。
    文久3年(1863)松平主税介忠敬が浪人取扱役となり、山岡鉄太郎(鉄舟)、久保田治部右衛門と共にその補佐役となって浪士組(新選組の前身)浪士の募集を開始した。この応募に応えて近藤勇(1834-1868)はじめ試衛館のメンバーが集まった。そして、浪士組清河八郎暗殺事件の直前、窪田治部右衛門とともに剣術の腕前を見込まれ浪士取締役に抜擢されている。
    慶応4年(1868)徳川慶喜が駿府の宝台院に入ったおり、松岡萬は新番組(旧精鋭隊)の隊長として隊士50人余を率いて宝台院まで警衛した。また、駿府三保沖で咸臨丸が官軍に襲われ多くの死者がでたが、官軍は死体を葬るなど触れることを禁じたが、清水次郎長はこれに従わず死体を葬った。これをとがめ次郎長を取り調べたのが、松岡萬であった。松岡萬は次郎長の「死ねば敵も味方ものない」との言に、死体は潮に流されたことにしてとがめなかったという。
   維新後、徳川家が駿府藩70万石として存続することになり、再び駿府城下が徳川駿府藩の管轄となる。徳川亀之助(家達)の移封に従い、最初庵原郡小島の小島奉行添役として民生にあたるが、のち水利路程掛に登用され阿部川の架橋を企画。磐田郡於保村の大池干拓・同郡岡部宿枝郷の山論等に関与。裁決が極めて公平的確であったことから、生前より地元の人は、地主霊社・松岡神社としてその徳をたたえ祀った。54歳。

墓は、全生庵(谷中5-4-7)。三遊亭円朝墓の隣り。墓碑銘「孤松院安息養気不隣居士」。