有馬誉純(ありましげずみ) 明和6年4月17日〜天保7年10月27日(1769-1836)
越前丸岡藩第5代藩主・晴信系有馬家8代当主。幼名、大之進。父、有馬允純(長男)。母、美濃子(清泰院)。明和9年(1772)父の死去に伴い家督相続し、藩主となる。財政難に苦しみ税制改革を行う。一方、文化元年(1804)藩校「平章館」を創設し、文治を奨励。「国乗遺聞」・「藤原有馬世譜」などの藩史や地誌の編纂もさせている。文化9年(1812)江戸城西の丸若年寄。文政13年(1830)養子の有馬徳純に家督を譲り隠居。68歳。
有馬徳純(ありまのりずみ) 文化元年5月1日〜天保8年9月22日(1804-1837)
越前丸岡藩第6代藩主・晴信系有馬家9代当主。幼名、格次郎。父、越後高田藩主榊原政敦(4男)。妻、有馬誉純の4女。文政13年(1830)養父有馬誉純の隠居に伴い家督を相続し、藩主となる。34歳。
有馬温純(ありまはるずみ) 文政12年〜安政2年4月25日(1829-1855)
越前丸岡藩第7代藩主・晴信系有馬家10代当主。幼名、其太郎。父、戸田純祐 (長男)。祖父、有馬誉純。6代藩主有馬徳純の養子となり、その娘幸姫を娶る。天保8年(1837)養父の死去に伴い天保9年(1838)2月家督を継ぎ藩主となる。領内の海岸防備として梶浦から波松にかけ砲台を築く。天保13年(1842)従五位下、日向守に叙任。27歳。子女の墓と思われるものもある。養子に8代藩主となった有馬道純がいる。
墓は、東京国立博物館庭園内(旧本覚院跡?)。庭園を反時計回りに行き、「応挙館」の手前。誉純:「無暦庵殿玄空誉純大居士」。徳純:「勇譲院殿咸説宗大居士」。温純;「欽崇院殿建中宗祐大居士」。温純の墓はないが、3名いる継室のいずれかの墓がある(嘉永5年9月17日寂)。