浅野喜三郎(あさのきさぶろう) ?〜明治29年1月6日(?-1896)
明治期の建築家。日比谷の諸官庁集中計画にあたり、明治19年(1886)に来日したドイツ人建築家のベックマンの進言により、内閣臨時建築局(総裁は井上馨)は、ドイツの建築技術を学ばせるために技師と職工21名を留学させることとした。浅野セメントの創始者である浅野総一郎の支援によりその一員として参加。明治19年(1886)11月16日に出発。明治20年(1887)1月ドイツに着き、エンデ ベックマン建築事務所や工場などに勤務し、技術の習得に務める。明治22年(1889)帰国。帰国してからは、坂内冬蔵と共にセメントの製造技術の指導にあたる。
※ 当時の毎日新聞特別広告に「生等今十六日午前八時十五分新橋発ノ汽車ニテ独逸国へ発程仕候勿卒之際御暇乞ノ礼ヲ欠ク此段遠近唇知ノ諸君二謝告ス 十九年十一月十六日 妻木頼黄 渡辺 譲 河合浩蔵」と掲載された。
※ 留学メンバー: 妻木頼黄・渡辺譲・河合浩蔵、浅野セメントから浅野喜三郎・坂内冬蔵、深谷煉瓦から大高庄衛門、美術家内藤陽三、建具職清水米吉、政府派遣の職工8名(志村今次郎・佐々木林蔵・鎗田作造・S専助・吉沢銀次郎・市川亀吉・篠崎源治郎・村上治郎吉)等総勢21名。
墓は、興禅寺墓地(谷中5-2-11)。本堂裏墓地入口近く右へ。正面「浅野喜三郎之墓」。「応喜院釈明了居士」。