馬場辰猪(ばばたつい) 嘉永3年5月15日〜明治21年11月1日(1850-1888)
自由民権運動の政論家。父、土佐藩士馬場源馬の子馬場来八(二男)。高知出身。馬場孤蝶の兄。藩校「致道館」に学び、慶応3年(1867)藩費生として福沢塾に入が、世情不安のため高知に戻り、長崎に赴き、半年ほどフルベッキに就いて英語を学ぶ。明治2年(1869)再度上京し、慶応義塾で経済学を専攻する。慶応義塾卒。明治3年(1870)はじめ藩費生としてイギリスに留学。1年ほど後に、岩倉使節団が来英し、改めて国費留学生として法律学を学ぶ。明治7年(1874)政府の召還により帰国。一時土佐に帰り、弟と妹を連れて上京。旧藩主に願い出て明治8年(1875)イギリスに留学。在英中小野梓らと日本人学生協会を組織、「日英条約改正論」を英語で著す。在英中、パリに3度渡り、フランスの情勢を視察する。明治11年(1878)帰国し小野梓らと「共存同衆」を再興。しかし、集会条例のため解体状態となり、明治14年(1881)「国友会」を設立し、副議長となる。自由党員。自由民権運動の輝かしい理論的実践的指導者だったが、藩閥政府の度重なる弾圧(横浜で爆発物取締規制違反で検挙など)に自由党を離れ、無罪となった明治19年(1886)大石正巳と米国に亡命し、米国において「朝野新聞」で自由民権思想を啓蒙し、反藩閥の言論活動をしていた。このとき、駐米公使の陸奥宗光を訪問している。陸奥宗光は藩閥政府側に身を置いていたが、自由民権の理念を持っていたと言われている。アメリカ フラデルフィアで肺結核で没する。39歳。
墓は、谷中霊園乙10号左5側。舗装通路東側。正面「馬場辰猪之墓」。墓は、フィラデルフィアの墓地に有ったオベリスク型の墓と同型のものを弟馬場孤蝶らが明治29年(1896)に建立。墓碑裏に、もうひとつ小さな「馬場辰猪之墓」がある。改装前の墓碑と思われる。