伊達宗城(だてむねなり)    文政元年〜明治25年12月20日(1818-1892)

    宇和島藩8代藩主(在任:天保15年〜安政5年:1844-1858)・明治時代の政治家・伯爵のち侯爵。幼名、亀三郎。江戸出身。父、旗本山口直勝(次男)。宇和島藩家臣伊達寿光の養子となり、のち、文政12年(1829)藩主伊達宗紀の養子となる。天保15年(1844)宗紀の隠居に伴い藩主となる。後に宗紀の実子として生まれた宗徳に藩主の座を譲った。宗城は福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬らと共に幕末の四賢侯と称された。藩政の重点を富国強兵におき、殖産興業政策をとり、一方、高野長英や大村益次郎を招き、西洋兵学を研究し藩兵の洋式訓練を行う。13代将軍徳川家定の後継問題で井伊直弼と対立した。結局、井伊直弼の推す徳川慶福が14代将軍家茂となった。この後、井伊直弼の大々的な報復的粛清があり、この事件は「安政の大獄」と呼ばれている。慶応3年12月(1868年1月)王政復古の後は新政府の閣僚となった。しかし明治元年(1868)戊辰戦争が始まると薩長の行動に抗議して、新政府参謀を辞任した。明治2年(1869)民部卿兼大蔵卿となって、鉄道敷設のためイギリスからの借款を取り付けた。明治4年(1871)には欽差全権大臣として清との間で日清修好条規に調印し、その後は主に英国エジンバラ公・ロシア国アレクセイ王子・米国グラント大統領など外国貴賓の接待役に任ぜられた。しかし、その年に中央政界より引退ている。旭日大授章。75歳。夫人は、鍋島斉の娘益姫。

墓は、谷中霊園乙8号11側。この番地のエリアは広く、伊達宗●という一字違いの墓が多く、注意が必要。写真で分かるように、背景に東日暮里の高層マンションが見える。正面「従一等勲一等伊達宗城公之墓」。