圓地文子(えんぢふみこ)    明治38年10月2日〜昭和61年11月14日(1905-1986)

    小説家、劇作家。東京浅草区向柳原出身。本名、富美。父、国語学の権威上田万年(次女)。日本女子大付属高女中退。父から英語、仏語、漢文の個人教授を受け、祖母から「源氏物語」などの古典や歌舞伎、浄瑠璃の影響を受ける。はじめ戯曲を志し、「晩春騒夜」を執筆して築地小劇場で上演されるなど劇作家としてスタートした。その後「日暦」「人民文庫」の同人となり小説を書き始めるが長く認められなかった。戦後、谷中清水町にある母の隠居所に同居。昭和28年(1953)「ひもじい月日」が認められ、翌年には女流文学者会賞を受賞。以後、「朱を奪ふもの」・「妖」・「女坂」(野間文芸賞)・「なまみこ物語」・「虹と修羅」(谷崎潤一郎賞)などを次々と発表。女性作家として女性の世界を描き、独自の境地を拓いた。昭和42年(1967)には「源氏物語」の現代語訳に着手し、病と闘いながら完訳し、昭和47年〜昭和48年(1973-1972)に「円地文子訳源氏物語」全10巻を出版。この本は、当時同居していた瀬戸内晴美(瀬戸内寂聴)は、「その執念は恐ろしいばかりで、命懸けの仕事だった」と言わしめた。子宮がん、糖尿病からの網膜剥離、白内障、脳梗塞と入退院を繰り返す中次々と大きな賞を取ったが、昭和60年(1985)の文化勲章受章の翌年秋急性心不全で没した。芸術院会員。81歳。

円地与四松(えんぢよしまつ)     明治28年〜昭和47年11月26日(1895-1972)

     東京日日新聞記者・工業組合連合会専務理事。父、円地与四朗(五男)。石川県出身。大正9年(1920)朝鮮銀行勤務。昭和5年(1930)円地文子と結婚。東京日日新聞論説委員・ベルリン特派員・調査部長企画嘱託・内閣調査局専門委員・外務省情報部新聞研究室主事・東京商業会議所企画部長など歴職。東海大学教授。77歳。著書:「世界経済会議の展望と現実の国際経済事情」。

墓は、谷中霊園11号5側。この区画には父「上田萬年之墓」、文子の長女素子の婚家「冨家家之墓」、文子夫妻の「圓地与四松/圓地文子墓」の三基がある。菩提寺は青山にあったが、文子の遺言により葬儀は無宗教で行われ、場所も宗教に無関係な公の墓地である谷中霊園となった。