藤田鳴鶴(ふじためいかく)/藤田茂吉(ふじたもきち) 嘉永5年〜明治25年8月19日(1852-1892)
新聞記者・政治家。通称、茂吉。別号、鶴谷山人・九皐外史・鳴鶴居士・聞天楼主人・翠嵐生など。父、豊後佐伯藩士林平四郎(三男)。豊後(大分県)出身。姻戚藤田氏を継ぐ。8歳で藩儒楠文蔚に師事、漢籍を学ぶ。明治4年(1871)上京し慶応義塾に入り、明治8年(1875)福沢諭吉に卒業とともに認められ、その推薦により「郵便報知新聞」に入社、主筆として、「東京日日」の福地桜痴の官権説を相手に、自由民権説を唱え、国会開設・自由民権の議論を戦わせた。明治8年(1875)言論恐怖時代の各種取締り令により同12月禁固1ヶ月罰金200円に処せられたたが、かえって世間の同情を得た。のちも報知新聞にて論説・小説・詩などに手腕をふるった。明治14年(1881)東京府会議員。明治22年(1889)自費にて欧米視察。明治23年(1890,1892)衆議院議員に当選。娘婿に相馬御風が、孫に作家の相馬文子がいる。著書:「文明東漸史」、「国会論」、「済民偉業録」など。
墓は、谷中霊園乙8号10側。ひょうたん横丁から標識に沿って入り約10m、左側。正面「光雲院釈聞天鳴鶴居士」。台石「藤田」。