福地桜痴(ふくいちおうち)/福地源一郎(ふくちげんいちろう)    天保12年3月23日〜明治39年1月4日(1841-1906)

    明治期のジャーナリスト。本名、福地源一郎。父、長崎の儒医福地苟庵(くあん)(長男)。肥前国長崎(長崎新石灰町)出身。幼名八十吉、元服後源一郎。号、桜痴。14歳頃に大通詞名村八右衛門について蘭学を始める。翌年には、オランダ稽古通詞となる。安政5年(1858)御軍艦奉行矢田堀(谷田堀)景蔵に従い咸臨丸で江戸に出る。安政6年(1859)から幕府に仕え、外国奉行支配通弁御用御雇になる。また、森山多吉郎の塾で英学を修める。万延元年(1860)御家人(下級武士)となる。文久元年(1861)12月〜文久2年(1862)12月遣欧米使節団の通詞となり、フランスに渡る。文久3年(1863)帰国。翌元治元年(1864)柴田日向守剛中の一行に従い、再びフランス、イギリスへ出張。フランスで万国公法国際法を学ぶ。慶応元年(1865)外国奉行支配調設格・通弁御用頭取に昇格し、御目見得以上の士文となる。
    慶応4年(1968)年に幕府寄りの「江湖新聞」を創刊。旧徳川有利の記事が多く新政府を批判したため逮捕され斬首されかけたが、彼の才能や何度か外遊している経歴を買って、木戸孝允(きどたかよし:桂小五郎:1833-1877)の尽力で放免。その後新政府の旧幕臣からの登用の申し入れを辞退し、また、徳川家の士籍も抜き、明治元年(1868)浅草馬道の"いろは長屋"に町人として住む。この頃より、花街に通い、仮名垣魯文らと交流。明治2年(1869)居を浅草抹香橋近くに移す。明治3年(1670)に大蔵省の会社知識啓蒙政策の一環として、渋沢栄一の「立会略則」とともに「会社弁」を著わす。明治4年(1871)岩倉遣欧使節に1等書記官として随行。明治6年(1873)一行と別れてギリシャ・トルコ・エジプトなどを遊歴する。明治7年(1874)官界を退き、条野採菊の創刊した「東京日日新聞」に入社。社説の創設や西南戦争(明治10年:1877)では、現地報道記事などでジャーナリストとしての業績を上げ、明治21年(1888)新聞社長に就任。この間明治15年(1882)には「立憲帝政党」を組織。明治22年(1889)には、福地桜痴、市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)・河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)らの提唱により歌舞伎座が建設された。「鏡獅子」は福地桜痴の作。福地桜痴は「演劇改良運動」の推進者で、西洋演劇に習った新しい演劇の創造に情熱を燃やした。福地桜痴は、二長町(にちょうまち:台東一・二丁目)、浅草馬道(あさくさうまみち:浅草五・六丁目)、下谷茅町(したやかやちょう:池之端一丁目)など台東区内に居を定め、浅草地区の街の整備、特に六区地区の開発にも尽力した。代表作に「幕府衰亡論」、「幕末政治家」などの歴史書がある。脚本:。脚本に「春日局」、「侠客春雨傘」など。明治37年(1904)衆議院議員。66歳。なお、条野採菊は「江湖新聞」で働いていたことがある。

墓は、谷中霊園甲1号12側。正面「福地源一郎」。桜通りより7基目。有馬道純墓の前。台東区指定史跡。「温良院徳誉芳否櫻癡居士」。