渋沢栄一(しぶさわえいいち)    天保11年2月13日〜昭和6年11月11日(1840-1931)

    近代日本の資本主義の父。幼名、栄二郎・篤太夫。号、青淵。埼玉県深谷市出身。父、渋沢市郎右衛門(晩香)(長男)。6歳で父に漢学を学び、家業の農業を手伝いながら従兄弟の尾高惇忠に師事し「論語」などを学び、長じて中野謙斎・太田玄齢らに経史を学ぶ。一時尊王攘夷の思想を持ち国事に奔走した。その後一橋慶喜に仕えた。27歳のとき水戸藩主徳川昭武に随行しパリの万国博覧会を視察し、また欧州先進諸国の多くの実情を得た。維新後は大蔵省に勤務し明治6年(1873)に退職し「第一国立銀行」の総監役となった。また、東京海上火災保険、東京ガス、秩父セメント、王子製紙、東京印刷、大阪紡績、札幌麦酒、帝国ホテルなど、500以上企業の設立など日本の産業発達に関わり財界に君臨した。大正5年(1916)には、経済界から引退し、社会事業家・教育家としても活躍し、商法講習所(一橋大学)・大倉商業学校(東京経済大学)・日本女子大学校・東京女学館の設立に参画。早稲田大学・二松学舎・国士舘大学・同志社大学の創立に経済的支援をした。子爵。92歳。著書多数。

     長男は篤二(母、千代)。二男は武之助(母、兼子)。三男は正雄(母、兼子)。四男は秀雄。長女歌子(母、千代)は穂積陳重の妻。二女琴子(母、千代)は阪谷芳郎の妻。三女愛子(母、兼子)は明石照男の妻。 孫に子爵渋沢敬三、渋沢正一・渋沢秀二がいる。

墓は、谷中霊園 乙11号1側。石柵によって囲まれた一角にある。正面「青淵渋沢栄一墓」。「泰徳院殿仁智義譲青淵大居士」。墓の文字は杉山令吉書。「渋沢資料館」が東京都北区飛鳥山公園内にある。栄一墓に向って右側に先妻渋沢千代(尾高氏)墓、左側に後妻渋沢兼子(伊藤氏)墓がある。死産やゼロ歳で亡くなった子の墓碑が6基並ぶ。また、養子の渋沢平九郎墓や合祀墓がある。