穂積陳重(ほずみのぶしげ) 安政2年7月11日〜大正15年4月8日(1855-1926)
明治・大正期の法律家。学士院長。愛媛県宇和島出身。父、宇和島藩国学者の穗積重樹(二男)。穂積八束(穂積郷子参照)の兄。明治3年(1870)藩校「明倫館」で学び、貢進生に抜擢、大学南校に入る。明治7年(1874)開成学校で法学を専攻。明治9年(1876)文部省からの命令で英国ミッドル テムブル大学・ドイツ ベルリン大学に留学し法律を学ぶ。留学中治外法権撤廃のためベルリン万国国際法会議に出席。明治14年(1881)に帰国し、東京大学法学部講師に就任。明治15年(1882)東京大学教授兼法学部長に就任。明治、大正時代の立法史に活躍。明治21年(1888)日本初の法学博士。明治23年(1890)貴族院議員。明治26年(1893)東京帝国大学法科大学長に就任。30年にわたり法律を講じる。帝国大学名誉教授。大正5年(1916)枢密院顧問官。大正6年(1917)帝国学士院長。大正14年(1925)枢密院議長。狭心症で没する。中央大学創立者の一人でもある。正二位勲一等桐花大綬章。71歳。子に最高裁判長の穂積重遠・律之助・真六郎・孝子・光子・晴子がいる。著書:「祖先祭祀と日本法律」、「法典論」、「法律進化論」、「隠居論」、「五人組制度論」、「法窓夜話」、「習慣と法律」、「タブーと法律」、「由井正雪事件と徳川幕府の養子法」。
穂積歌子(ほずみうたこ)/穂積宇多 文久3年〜昭和7年1月31日(1820-1932)
穂積陳重の妻。渋沢栄一の長女。明治15年(1882)穂積陳重と結婚。4男3女(穂積重遠・海軍技術少将穂積律之助・穂積貞三・穂積真六郎・渋沢元治夫人穂積孝子・石黒忠篤夫人穂積光子・市河三喜夫人穂積晴子)をもうける。彼女は日記を克明に綴っていたが、平成元年(1989)12月日記の一部(明治23年〜明治39年)を孫の穂積重行の手で「穂積歌子日記 1890〜1906 明治一法学者の周辺」として刊行された。夫妻は、芝居の熱烈なファンで、その様子も日記に表れているという。著書:「穂積歌子日記」、「ははその落葉」、「三日の大和路」。
墓は、谷中霊園乙11号2側。正面「法学博士男爵穂積陳重墓」。囲いの中で施錠がしてあり、入るには許可が必要。囲いの外から垣間見える。穂積重遠の墓に並ぶ。墓碑の建立は、穂積重遠によるもの。穂積歌子墓(正面「穂積歌子墓」)は、隣接する。