穂積重遠(ほづみしげとお) 明治16年4月11日〜昭和26年7月29日(1883-1951)
民法学者・最高裁判所判事・男爵。日本家族法の父と呼ばれている。東京府深川出身。父、民法学者の穂積陳重(長男)。明治41年(1908)東京帝国大学法科大学を卒業し、東大講師となる。明治43年(1910)東京大学法律科大学助教授。大正元年(1912)ドイツ、フランス、イギリスに留学。帰国後教授となる。大正6年(1917)法学博士。大正8年(1919)から昭和3年(1928)までの臨時法制審議会で、親族法・相続法の改正にあたり、封建的家父長制に反対、また家事裁判所の設置を提案。大正15年(1926)男爵を襲爵。昭和12年(1937)帝国学士院会員。昭和14年(1939)東京帝国大学法学部長。臨時法制審議会幹事。昭和18年(1943)定年退職。昭和19年(1944)貴族院議員。昭和20年(1945)東宮大夫兼東宮侍従長に就任し皇太子(今上天皇)の教育に参画した。昭和24年(1949)最高裁判所判事。早くから法文・判決文の口語化を提唱した。68歳。著書、「相続法」、「法学通論」、「新民法読本」など。夫人は、児玉源太郎の二女仲子。
墓は、谷中霊園乙11号2側。囲いの中で施錠がしてあり、入るには許可が必要。囲いの外から垣間見える。穂積陳重の墓に並ぶ。正面「穂積重遠墓」。