徳川慶喜(とくがわよしのぶ)    天保8年9月29日〜大正2年11月22日(1837〜1913)

    徳川15代将軍。水戸藩主徳川斉昭(なりあきら)の7男。弘化4年(1847)一ツ橋家を継ぎ一橋慶喜となる。慶応2年(1866)12月5日、15代将軍となる(在職1866〜67)。慶応3年(1867)10月14日大政奉還し二条城を去り、大阪城を経由して上野の大慈院に入った。江戸開城後、水戸弘道館に謹慎。後、駿府に移り、明治13年(1880)正二位に復し、明治21年(1888)従一位。明治35年(1902)公爵になる。大正2年(1913)11月22日、午前4時、肺炎による心臓麻痺で死亡。葬儀は寛永寺内の齋場で神式で行なわれた。野村敏雄の「葬送屋菊太郎」には、この葬儀の様子が詳しく記述されている。

※ 徳川家16代は徳川家達、17代は徳川家正

徳川美賀子(とくがわみかこ)     天保6年〜明治28年7月9日(1835-1895)

     慶喜の正室。父、今出川公久(長女)。実順の妹。はじめ一条忠香の養女延君、のち省子、維新後美賀と称する。嘉永6年(1853)結婚したが、子はない。江戸城開城後は、小石川水戸邸、深川伊勢崎町水戸藩倉屋敷などに住む。慶喜の謹慎が解かれた後は、明治2年(1869)静岡紺屋町邸に慶喜と住む。明治27年(1894)病気療養のため東京に戻ったが、千駄ヶ谷徳川家達邸で没した。三位中将。60歳。「貞粛院」。

墓は、寛永寺谷中墓地で谷中霊園乙5号地区に隣接。案内表示あり。将軍の墓にしては、勅額門や唐門などの形式を継承していない神式の質素なもので、隣には妻美賀子の墓、周りに側室の墓がある。都史跡。なお、寛永寺境内には、改葬前の法塔墓が残っている(写真4枚目)。